法滅百歳の機
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ほうめつひゃくさいのき
仏法が滅んだ後の百年間、浄土の経典のみがこの世にとどまる時の衆生。(安心決定 P.1385)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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『無量寿経』に、
- 仏のたまはく、「われいまもろもろの衆生のためにこの経法を説きて、無量寿仏およびその国土の一切の所有を見せしむ。まさになすべきところのものは、みなこれを〔尋ね〕求むべし。わが滅度ののちをもつてまた疑惑を生ずることを得ることなかれ。当来の世に経道滅尽せんに、われ慈悲をもつて哀愍して、特にこの経を留めて止住すること百歳せん。(大経 P.82)
と、仏教が滅尽しても、阿弥陀仏の慈悲によって、この『無量寿経』を留め止住すること百歳とある。百歳は文面上は百年という数をあらわすが、これは満数を意味し永遠という意味である。
法然聖人はこの『無量寿経』の文によって。末法には教・行・証の行・証が欠けてしまい、滅法には経すらも滅するが、この『無量寿経』だけは残って衆生を済度するとされ、末法の世に信順する教えは『無量寿経』だけであるとされた。[1]