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彼此三業不相捨離

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 ひし-さんごう-ふそうしゃり 彼此三業不相捨離

『観経疏』定善義の親縁釈にある語。

一には親縁を明かす。 衆生行を起して口につねに仏を称すれば、仏すなはちこれを聞きたまふ。 身につねに仏を礼敬すれば、仏すなはちこれを見たまふ。 心につねに仏を念ずれば、仏すなはちこれを知りたまふ。 衆生仏を憶念すれば、仏もまた衆生を憶念したまふ。彼此三業あひ捨離せず(彼此三業不相捨離)。 ゆゑに親縁と名づく。(定善義 P.436)

 衆生が口で仏名(ぶつみょう)(とな)え、身で仏を礼拝(らいはい)し、(こころ)で仏を念ずるとき、これらを仏は聞き、見、知って衆生と仏とは互いに憶念(おくねん)し合うという密接不離の関係にあること。→三縁
江戸時代の三業惑乱という論争によって、他力義を学問として究極的に追及した結果、衆生の側の身・口・意の宗教的行業を否定しすぎたのである。これによって近代の法義は衆生の上で動的に躍動する、なんまんだぶを称える「大行」である行為を抑制してきたのだとも思ふ。なんまんだぶを称えることは阿弥陀如来が衆生に往相回向したまふ大行なのである。

つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。
大行とはすなはち無碍光如来の名(みな)を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。 (行巻 P.141)

蓮如さんは、

しかれば「南無」の二字は、衆生の阿弥陀仏を信ずる機なり。つぎに「阿弥陀仏」といふ四つの字のいはれは、弥陀如来の衆生をたすけたまへる法なり。このゆゑに、機法一体の南無阿弥陀仏といへるはこのこころなり。これによりて衆生の三業と弥陀の三業と一体になるところをさして、善導和尚は「彼此三業不相捨離」(定善義)と釈したまへるも、このこころなり。(御文章 P.1147)

深川倫雄和上は、全分他力を説かれておられたが、この親縁釈を、

称えてみぃや聞いてござるぞ、拝んでみぃや見てござる、思うてみぃや知ってござる。

と仰っていたものだった。ありがたいこっちゃ。なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

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