宿善の開発
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(宿善開発から転送)しゅくぜんのかいほつ
信を獲るための過去のよき因縁が熟して、信心が開け発ること。(御文章 P.1088)
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
しゅくぜんのかいほつ 宿善の開発
信心を得るための過去のよき因縁が熟して、信心が開けおこること。『御文章』1帖目第4通には
- 「平生に弥陀如来の本願のわれらをたすけたまふことわりをききひらくことは、宿善の開発によるがゆゑなりとこころえてのちは」(註 1088)、
2帖目第9通には
- 「一念帰命の信心をおこせば、まことに宿善の開発にもよほされて、仏智より他力の信心をあたへたまふがゆゑに」 (註 1123)
等とある。(浄土真宗辞典)
◆ 参照読み込み (transclusion) トーク:宿善
御開山が依用された七祖聖教には『往生要集』や『唯信鈔』の若干の例を除いて[宿善]という語は無い。もちろん御開山の著書の中にも宿善という名目は無い。このように過去世に積んだ善根である宿善という語をお使いにならなかったのは真実とは何かの根拠を『論註』の「真実功徳釈」によられたからであろう。『論註』の「真実功徳釈」の真実功徳相には、
とあり、凡夫・人天の諸善は全て顛倒であり虚偽であるとし、法蔵菩薩の智慧清浄の業より起された菩提心(本願)こそが真実であるとされたからである。衆生の有漏の心より生じる善に往生成仏の因や縁としての意味を認めなかったから宿善という言葉をお使いにならなかった。御開山は自らの中に全く真実がないということをもって真実とされた方であった。それゆえに選択本願の法に遇(あ)えた慶びを語るには宿善ではなく宿縁(阿弥陀仏が遠くはてしない昔から、衆生を救済しようという誓願をたてた縁のこと)という語を使われておられるのもその意である。
総序に「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ(遇獲行信 遠慶宿縁)」(総序 P.132) とあるように、思いがけなくも、たまたま本願の教えに出遇われたのであった。→まうあふ
なお法然聖人は『往生浄土用心』で、
「弥陀は、悪業深重の者を来迎し給ふちからましますとおぼしめしとりて、宿善のありなしも沙汰せず、つみのふかきあさきも返りみず、ただ名号となふるものの、往生するぞと信じおぼしめすべく候」(『往生浄土用心』P.677)
と、宿善の有無を沙汰するよりも、ただ名号の専称(なんまんだぶ)ををすすめて下さった。
浄土真宗に宿善といふ名目を導入された覚如上人の意図を、梯實圓和上は『聖典セミナー 口伝鈔』で次のように述べておられた。
ところで覚如上人が、このように光明のはたらきとして宿善を語り、その宿善のはたらきによって往生の業因である名号を疑いなく領受する聞法の器として育てられ、信心を得しめられると、他力に依る獲信の因縁を強調されたのには、それなりの理由がありました。それは、浄土異流の中でも特に鎮西浄土宗を姶めとする自力を肯定する人々からの厳しい論難でした。
たとえば鎮西派の派祖、聖光房弁長(弁阿)上人の『浄土宗名目問答』巻中には、全く自力をまじえずに阿弥陀仏の本願他力のみによって往生成仏が成就すると主張する「全分他力説」を批判して、
- このこと極めたる僻事なり。そのゆえは、他力とは、全く他力を憑みて一分も自力なしということ、道理としてしかるべからず。自力の善根なしといえども他力によって往生を得るといはば一切の凡夫の輩、いまに穢土に留まるべからず。みなことごとく浄土に往生すべし。 (『浄土宗全書』一○・四一○頁・原漢文)[1]
といわれています。もつともこれは直接真宗に対する論難というよりも、真宗も含めて、西山派や一念義系の諸派の「自力を捨てて他力に帰する」という主張全体に対するものでした。もし自力の善根が全くないにもかかわらず、ただ他力のみによって往生するというのならば、阿弥陀仏が正覚を成就して本願他力を完成された十劫正覚の一念に、十方の衆生はみな往生してしまって、穢土に留まっているものなど一人もいないはずではないか。しかし現実には迷っているものが無数に存在するのだから、全分他力説は明らかに事実に背いた誤った見解であるというのです。そもそも第十八願には、往生を願う願生の信心を起こして念仏するものを往生させると誓われていて、何もしないものを救うとはいわれていません。信心を起こし念仏するという往生の因は自分で確立しなければ、どれほど強力な本願力の助縁があっても縁だけでは結果は出てきません。信じることと念仏をすることとは私が為さねばならない往生のための必須条件、すなわち因であって、一人一人が貢任を持って確立すべき自力の行いです。もっとも煩悩具足の凡夫である私にできる自力は微弱なものです。しかし本願念仏の功徳はどの行よりも勝れていますし、それに強力な増上縁としての本願力が加わるから、報土に往生することができるのです。それを他力の救いというといわれていました。
このような、弁長上人の教えを承けて、鎮西教学を大成された弟子の然阿良忠上人は、『決疑鈔』巻一(『浄土宗全書』七・二〇九頁)[2]に、次のようにいわれます。自力の因と、他力の縁とが和合して修行が成就し、往生、あるいは成仏の果を得るという「因縁果の道理」は、聖道門であれ浄土門であれ共通している仏法の法理である。ただ聖道門は、自力の要素が強く、他力の要素が弱いから自力の法門といい、浄土門は、自力の要素が弱く、他力の要素が強いから他力の法門と呼ぶことはあるが、自力ばかり、他力ばかりの教えは存在しないといわれています。
こうした「自力と他力が相俟って救いが成立する」と考える鎮西派を始めとする多くの浄土門の学僧たちから、他力の信心、念仏を説く真宗の教えは仏法の道理に背く誤った教えであると厳しく批判されていました。もし往生の因である信心も念仏も如来から与えられたもので、因も縁も総べて他力であるというのならば、結局は弁阿上人が批判されたように、すでに皆救われているはずで、事実と相違することになる。それに信心は如来から与えられたものであるというのならば、一切の衆生に同時に与えられるはずであるから、みな同時に獲ていなければならないであろう。人によって信心を獲る時に前後の差があるというのは矛盾である。もしまた如来は同時に平等に回向されるが、受け取る衆生の宿善に厚薄の違いがあるから、獲信の時に遅速の差が出るというのならば、その宿善が熟するのは自力によるのか、それとも他力によるのか。もし宿善までも如来の他力によって熟せしめられるというならば、道理からいっても全分他力と同じ失に陥り、事実と異なるという過ちを犯すことになる。しかし、もし自力によって宿善が成就するというのならば、自力によって宿善を積み重ねることによって他力の信が起こるという矛盾が生ずる。要するに往生の因である信心も念仏も自力で起こすものであって、他力の信心、他力の念仏というようなものは存在しないということになるという疑難が絶えず突きつけられていました。
それに対し、覚如上人は親鸞聖人が仰せられたように、第十八願の信心も念仏も如来の本願力によって回向された他力の法であると強調し、特に獲信の時に遅速のある道理を、阿弥陀仏の光明摂化を本体とした宿善論を導入することによって論証したのがこの第二章です。
すなわち自己を憑む心が強くて、阿弥陀仏の本願他力の救いを受け容れず、迷妄の自心に惑わされて我執の巣窟に閉じこもっている凡夫は、空しく生死を流転し続けるばかりで、いつまでもたっても生死を解脱することはできません。こうした私どもを自力の巣窟から喚び覚まして、如来の大悲智慧の世界に引き入れるために阿弥陀仏は、機根に応じて権化方便の摂化を垂れて、徐々に教えを受け容れることのできる聞法者を育てられていることを宿善といわれたのです。
誓願一仏乗という、前人未到の境地を開かれた御開山の教説を合理的に解釈しようという覚如上人の考察が、浄土真宗に「宿善」という名目を導入された意図であろう。もっとも、法然聖人、御開山聖人の示して下さった浄土真宗に於いては、口に〔なんまんだぶ〕と、称える以外の《善》はありえ無いのであった。何故なら阿弥陀仏が選択摂取して下さった念仏成仏の正定業(正しく衆生の往生が決定する業因)が、口に称えられる〔なんまんだぶ〕であるからである。如来が選択された意からいえば、念仏者にとっては「弥陀の本願は行にあらず、善にあらず、ただ仏名をたもつなり」(消息 P.807) の非行非善である。ゆえに諸仏の行ずる行と等しい大行なのである。
御開山は、信心の形而上学ともいえる信を顕す為に『教行証』という行から信を別開されたのであった。その意味において、〔なんまんだぶ〕と称える教行証の「行」は本願力回向の教法であり信に先行するのである。「行巻」で「しかるに教について念仏諸善比挍対論するに」(行巻 P.199) とされておられるように大行は教法であり教行だからである。
この救いの教と行を信知した時に往生は決定するのである。その救いの業因である、なんまんだぶが私の上に開け起こった時を指して信心正因というのである。「信と行とを機の上で前後して起るものとして語る場合に信心正因、称名報恩」(*)というのであり、浄土真宗の信心とは私の口に〔なんまんだぶ〕と称えられている、
「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきり」(歎異抄 P.832)
という「行信」の事実をいうのである。この行信を獲信した事実の上で遇法の善き因縁が、御開山の意でいえば宿善(調熟)の当体ともいえるであろう。自覚や自己責任という智愚の毒におかされた現代人には窺い知ることもできないご法義である。愚鈍の林遊のような門徒にとっては「選択本願は浄土真宗なり、定散二善は方便仮門なり。浄土真宗は大乗のなかの至極なり」(消息P.737)の〔なんまんだぶ〕を称えて生死を超える大乗至極の仏法であった。ありがたいこっちゃな。
ともあれ、覚如上人・蓮如上人の使われた「宿善」という語は、現在から過去をふり返って「調育」とか「調熟」の「お育て」の義をいうのであって、決して求めるべき往生の「体」として宿善を語られることはなかった。
- 宿善とは、自分がいま思いがけなく尊いみ教えに逢い、救われた慶びと感動を、遠い過去に遡って表現している言葉であって、宿善を積み重ねることによって教えに逢おうとするような次元の教説では決してなかったのです。(*)
と、梯實圓和上が示されたごとくである。「因果の道理」という語に幻惑されて、宿善をまるで獲信の因であると錯誤し宿善を積み重ねて仏果を得ようと誤解する/した者は昔から少なからず存在したものである。しかして、宿善の意味を取り違えて、往生の業因はなんまんだぶであるという全分他力のご法義の中にいることを信知できない者は、「宿善を積み重ねることによって教えに逢おうと」として空しく自力の修善に迷うのであった。
鎮西浄土宗では、聖道門は「自は強く他は弱し」とし、浄土門は「他は強く自は弱き」とし、自力と他力が相俟って救済が成立するとして、浄土真宗のような本願力回向による全分他力説をとらない。
- 選択伝弘決疑鈔 良忠 決疑鈔の抜粋
自力他力者、自三學力名爲自力、佛本願力名爲他力也。
- 自力他力とは、自の三学力(戒定慧の三学)を名けて自力となす、仏の本願力を名けて他力となすなり。
問 聖道修行亦請佛加、淨土欣求行自三業、而偏名意如何。
- 問う、聖道の修行もまた仏加を請う、浄土の欣求も自の三業を行ず、而を偏に名ける意いかん。
答 聖道行人先行三學、爲成此行而請加力、故屬自力。
- 答う、聖道の行人は先づ三学を行ず、此の行を成ぜんが為に而も加力を請う、故に自力に属す。
淨土行人先信佛力、爲順佛願而行念佛故屬他力也。
- 浄土の行人は先ず仏力を信じ、仏願に順ぜんが為に而も念仏を行ず、故に他力に属するなり。
自強他弱、他強自弱思之可知、水陸二道譬意自―顯也。
- 自は強く他は弱しと、他は強く自は弱きとこれを思てしるべし、水陸二道譬の意おのずか顕わるなり。
乘佛願力者 即指第十八念佛往生願。
- 乗仏願力とは即ち第十八念仏往生の願を指す。
例すれば、聖道門は自力が90%で他力が10%であり、浄土門は他力が90%で自力が10%であるというのであるから、御開山の示された100%の本願力回向の法義と違うのである。
- 浄土宗名目問答 弁長 浄土宗名目問答の抜粋
問 有人云。數遍是自力也 自力難行道 難行道陸路步行 雖苦其身 於往生者 全以不可遂也。
- 問ふ。有る人の云く。數遍はこれ自力なり、自力は難行道なり。難行道は陸路の步行なり。その身を苦しむといえども、往生においては全く以て遂ぐべからざるなり。
一念是他力也 他力是易行道也。易行道乘船水路 安樂其身 於往生速得之此義如何。
- 一念はこれ他力なり、他力はこれ易行道なり。易行道は乘船水路なり。その身を安樂にして往生において速にこれを得と、この義いかん。
答。此事極僻也。其故 云他力者 全馮他力 一分無自力事 道理不可然。
- 答ふ。この事、極たる僻ごとなり。その故は、他力とは全く他力を馮み、一分も自力無しと云ふ事、道理しからず。
云雖無自力善根 依他力得往生者 一切凡夫之輩 于今不可留穢土 皆悉可往生淨土。又一念他力數遍自力者 何人師釋耶。
- 自力の善根無しといえども 他力に依て往生を得ると云はば、一切の凡夫の輩、今に穢土に留まらず、みな悉く淨土に往生すべし。 また一念の他力、數遍の自力とは何なる人師の釋なるや。
善導釋中 有自力他力義 無自力他力釋。一念他力數遍自力釋難得意。
- 善導の釈の中に自力の他力の義あれども、自力他力の釈無し。一念は他力数編は自力の釈こころ得がたし。
又善導釋中 云以水陸譬難易二道 其釋未見。
- また善導の釈の中に、水陸のたとえをもって難易二道と云えること、その釈いまだ見えず。
但曇鸞導綽二師 以水陸譬難易二道。
- ただ曇鸞・道綽の二師、水陸をもって難易二道にたとふ。
又雖作自力他力釋 其又以一念 爲易行道 以數遍爲難行道 釋全所不作也。
- また自力他力の釈をなすといえども、それまた一念をもって易行道となし、数偏をもって難行道となすという釈まったく作さざりしなり。