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声明

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しょうみょう

 ここでは仏教の儀式音楽の意。 (改邪鈔 P.933)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

◆ 参照読み込み (transclusion) jds:声明

しょうみょう/声明

法要で僧が唱える声楽の総称。五明の一つとして言語学・文法学などを意味する。声明は、言葉をもって仏を供養讃歎することから抑揚をつけて行われた。中国ではこれを経唄きょうばいと呼び、梵唄梵讃唄匿ばいのく梵音とも呼ばれた。梁の『高僧伝』一三によると金言(経典)の翻訳はあれども梵響は伝わらなかったとされる。その後、陳思王曹植そうしょく(一九二—二三二)が魚山ぎょざんに遊び空中より神(梵天)の声を聞いて、その声節を写しとり梵唄とし、息継ぎや抑揚、法を神(梵天)より伝授され、四二の経典と三千有余の声を伝えたとする(正蔵五〇・四一五上)。さらに自らも仏を讃える偈頌を作り、それに基づき多くの梵唄が作られている。日本では、天平勝宝四年(七五二)の東大寺大仏開眼供養会で四箇法要が行われ梵唄が唱えられたようである。平安時代になると天台声明真言声明の基礎となるものが帰国僧によってもたらされたが、声明という言葉はいまだ五明の一つとして特に悉曇しったん声明として理解されていた。声明仏教音楽を表す言葉になるのは平安時代後期になってからのことである。浄土宗における声明の伝承は『四十八巻伝』九に「上人礼盤のぼりて啓白す。其の後、錫杖を誦し、懺法せんぼうを始め給う」(聖典六・九六)、同九に「また開白以後は、惣礼の伽陀を略すべし。次に例時の作法、常のごとし」(聖典六・一一五)とあるように法然の時代までさかのぼり、天台声明の流れを汲んでいた。また六時礼讃聖聡による『引声阿弥陀経』の板行、祐祟の十夜法要引声阿弥陀経引声念仏)の伝承、慶竺による祖忌法則の制定と後柏原天皇による大永四年(一五二四)の御忌鳳詔ほうしょう等があり、知恩講式舎利講式仏名会などの法会資料にも声明が記録されている。浄土宗声明は江戸時代初期までは京都を中心に継承されていた。増上寺では明暦二年(一六五六)に貴屋きおく大原恵隆えりゅうと京都の堪能な声明衆を連れて帰り、声明の伝授研鑽を謀った。以降増上寺では声明業の隆盛をみるにいたり、後には「縁山声明」という、大原流を継承しつつも、旋律は大原流とまったく趣きを異にした独特な旋律唱法を生み出した。一方、知恩院を中心とする京都では天台声明の流れにありながらも、所々において異なり、今日祖山声明と称されるものを伝承する。


【参照項目】➡五明


【執筆者:大澤亮我】


知恩院声明祖山声明ともいい、天台声明の流れを汲むものである。法然の時代には『浄土三部経如法経次第』に錫杖合殺かっさつ懺法せんぼう総礼伽陀そうらいかだ例時作法などが唱えられ、住蓮の『声明集(仮題)』(百万遍知恩寺蔵)、隆寬の『知恩講私記』(安貞二年〔一二二八〕)等が修され、また慶竺は祖忌法則の制定によって現行御忌の基礎を定め、大永四年(一五二四)の後柏原天皇による御忌鳳詔をうけ、知恩院声明御忌法要を中心に盛んとなり伝承された。延宝八年(一六八〇)の善導大師一千年忌、元禄一〇年(一六九七)の円光大師諡号法要、宝永八年(一七一一)の五〇〇年御忌等の大法要が行われ、盛んに声明法要が営まれた。知恩院蔵『年中行事』によると正月に梵讃四智讃)と伽陀後伽陀舎利講、御忌には伽陀四智讃・唄・散華梵音錫杖後伽陀、台徳院殿の法事には四智讃伽陀後伽陀、春秋彼岸には如法念仏般舟三昧念仏)、施餓鬼には四智讃、十夜には弥陀懺法伽陀四智讃敬礼仏名後唄等)が唱えられていた。その御忌法要の場合、近世までは、一九日は「声明呂」、後伽陀のみ半律、それが二二日には「声明方律」、以降はまた「呂」に戻るように指示されて、現行より豊かな唱法が用いられていた。また明治になっても、『華頂山内規約』(明治二五年)に「古式により般舟三昧例時懺法読経如法に厳修すべき」(『知恩院史』四五九頁)であるとしその伝承に勤めた。現在、知恩院式衆会は御忌を中心に善導忌、兼実忌、勢観忌などを修して声明の伝承に当たっている。旋律型は波形の「ユリ」が特色である。また声明本としては江戸時代の『四箇法要伽陀』(始段唄散華梵音錫杖仏名伽陀六種・四智讃〔呂・律〕・散華〔律〕・後唄念誦)や江戸末から明治の『声明』(蓋山蔵版)、明治から昭和初期に至る『声明』(知恩院蔵版)があり、昭和六一年(一九八六)には『浄土宗声明集』などが発刊された。


【参照項目】➡御忌会


【執筆者:大澤亮我】


増上寺に伝わる声明。同寺二三世貴屋きおくが明暦二年(一六五六)に上洛、洛北大原声明師恵隆はじめ声明衆に増上寺止住を懇請、これより増上寺縁山声明が起こったとされる。徳川将軍の新葬・法事で唱えられた。尊超法親王は、縁山声明道にも意を注ぎ、叡山古来の声明縁山当代の声明を比較し、音声の扱い方と節奏等に差隔があったことを伝えている(『浄土宗法式精要』)。明治四四年(一九一一)宗祖七〇〇年御忌法要に際し、千葉満定が中心となり再興したとされ、満定は、声明の譜曲として「押し」と「当り」の二曲が基本であり、これによってさまざまな音調を案出したとしている。押しには、シャクリ押・ナヤシ押・押上げ・押込み・押巻などをあげている。当りは、色当・暁烏あけがらす・谷渡り・柳・引込み・り込み・由り返し・喰切り・由り上げ・知らせなどをあげている。祖山声明縁山声明の相違は「ユリ」の唱え方である。祖山のユリは、大海原の大波のゆっくりうねる唱法であるのに対し、縁山のユリは、賓由ひんゆり小波さざなみにたとえている。縁山声明声明譜は、恵隆の写本として発刊した『声明集』(天和三年〔一六八三〕)がある。『法要集』(明治四三年版)には、恵隆本を元にして博士と一部に簡略譜を掲載し、ユリの部分を明解にした。さらに『礼讃声明音譜』や『声明並特殊法要集』『縁山声明集』がある。譜本としては博士五音を付けた「礼讃声明音譜」(増上寺法務課、一九二六)と同寺式師会発行『御忌声明集』がある。同流声明の旋律型の特色は押しユリを基本とし、四智讃伽陀の二種のユリを伝えている。ユリに付く押しと当りによって華やかさを表現し、旋律型を伝承している。曲目は始段唄散華梵音錫杖後唄四智讃天地此界はじめ各種の伽陀が伝えられている。声明次第中のいつ唱えられるかは、法要によりさまざまであるが、前半で唱えるものに四智讃散華があり、伽陀序分に配当したときは前伽陀の機能として勧請の意を持ち、後半に配当したときは供養撥遣の意を持つ。


【資料】『浄土宗法式精要』


【参考】千葉満定『浄土宗法式精要』(浄土宗法式会、一九二二)、山本康彦「縁山声明について」(『大本山増上寺史』増上寺、一九九九)


【参照項目】➡声明集


【執筆者:田中勝道】