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四句

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 四句分別のこと。 存在に関する四種の考察。 「有・無・または有または無・有にあらず無にあらず」 をいう。 (安楽集 P.205)

 四句分別のこと。 ものごとを解釈する四種の論理形式。 有と無についていえば、①有り (第一単句) ②無し (第二単句) ③有りかつ無し (第三倶句) ④有るに非ず無しに非ず (第四倶非句) の四種となる。 (要集 P.1016)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。


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『仏教の思想3 空の論理』〈角川文庫〉から抜粋。

ナーガールジュナの論理形式

 ナーガールジュナの論理形式については宇井伯寿博士(『東洋の論理』)、とくにリチャード・H・ロビンソン教授(前掲書、二○ページ参照)が明快な研究を発表している。いまはそれらの成果を参考にしながら、簡潔に記述する。

 西洋の形式論理の三原理[1]はナーガールジュナも事実上認めている。とくに矛盾の原理は彼の議論の支柱となっているといってよい。「単一なものに存在性と非存在性はありえない」(七・三○)がそれを的確に述べているほか、この原理の応用はわれわれがみてきた彼の議論に頻出していた。排中の原理は、たとえば、「行くものは行かない、行かないものもけっして行かない。行くものと行かないものと別な第三のものがどうして行こうか」(二・八)などにおいて用いられている。同一の原理は、たとえば、「AがBによって生じるとき、AはBと同一でないし、また別異でもない」(一八・一○)などに予想されている。ある現象、ここでは因果関係の中に本質的な意味での同一律が適用できないということは同一の原理を無視していることではなくて、その応用である。これはナーガールジュナのディレンマ構成の主要契機となっているもので、のちに述べる彼の論理の特色と関係がある。また、彼の中観の論理の本質は形式的な矛盾・排中の原理に従うものでもない。 この点については後に触れる。

 定言的論証(三段論法)の典型的なものは、「欺瞞的なものは虚構であると世尊は説いた。すべての制約されたものは欺瞞的なものである。ゆえにそれは虚構である」(一三・一)などに見える。しかし、ナーガールジュナは自己の理論を主張するよりも、他学派の理論を批判することに専心したから、定言論証式を多用しない。そのかわりに仮言的推理・ディレンマ・四句否定が彼の武器となる。

 仮言的論証(条件的論証)のうちで、「pならば、q、そしてp、ゆえにqである」(p・q・rなどは要素命題とする)、という構成式は、「眼はそれ自体を見ない。(眼が)それ自体を見ないときに、どうしてそれ以外のものを見るであろうか」(三・二)などに見られる。(これは、「眼はそれ自体を見ないならば、眼はそれ以外のものも見ない。眼は自体を見ない。ゆえに眼はそれ以外のものを見ない」と通常の形式に書き直せる。) しかし、「pならばq、qではない、ゆえにpでない」という破壊式の方が数多い。ただし結論の部分、前件の部分などが文面で省略されることが多い。たとえば、二章、2・(7)で扱った五・一頌は、「空間があるならばそれは定義された後にある。空間は定義より後にはない。ゆえに空間は存在しない」と書き換えることができる。仮言的論証における前件否定の誤謬はナーガールジュナに数多く見いだされる。これについても後述する。

 ナーガールジュナの代表的なディレンマの形は「(pあるいは非p)pならばr、非pならばr。(ゆえにr)」という形のものである。たとえば、「もし原因の中に結果がないならば、どうして原因が結果を生じようか。もし原因の中に結果があるならば、どうして原因は結果を生じようか」(二○・一六)は上述の形式のディレンマである。

 もう一つ頻出するディレンマの形式は「(pあるいは非p)pならばr、非pならばs。(ゆえにrあるいはs)」というものである。(これは「pならばr、qならばs。ゆえにrあるいはs」という場合のqがpの矛盾命題となったもの。rとsはいずれも望ましくない事実。)この形式の一例としては、「薪が火であるならば、主体とその行為が一つとなる。薪が火と別ならば、薪がなくても火はあるであろう」(一○・一)をあげることができる。

四句否定

四句否定(厳密に一致はしないが、便宜的にテトラレンマと呼ぶ学者もある)はナーガールジュナの創見ではなくて、すでに初期経典にも見られたもので、彼はその伝統を受け継いだだけである。たとえばナーガールジュナの「世尊はその死後に、存在するとも、存在しないとも、その両者であるとも、両者でないとも、いうことはできない」(二五・一七)という詩頌は『マッジマ・ニカーヤ』六三でマールンキヤーブッタがシャカムニ・ブッダの教えとして伝えるものと内容は同じである。『中論』にはこの形の四句否定ははなはだ多い。ものは自らも生ぜず、他からも生ぜず、自他の両者からも生ぜず、無因(両者の無)からも生じない二・二といったり、本体についても、自己の本体、他の本体、存在(自と他)、非存在(両者の無)のすべてを否定している(二五・三ー五)。有名な詩頌「有でなく、無でなく、有無でなく、両者の否定なるものでもない、四句を越えた真実を中観者は知る」(プラジュニャーカラマティ『入菩提行論注』第九章引用)が示すように、四句否定は中観の真理を表わすものと理解されてきた。しかし、四句否定については論理的にも応用の面からも困難な問題がある。

 論理的な問題とは次のようなものである。第一の命題をpとすれば、四句は、p・非p・pかつ非p・非pかつ非非pと書き表わせる。形式論理の立場、いい換えれば、この四句を同一の論議領域に属するものとする立場から見ると、第三句pかつ非pは明らかに矛盾の原理にそむいている。第四句の非非pはpに等しいから、第四句は非pかつpの意味であり、実質的に第三句に等しくなる。当然、これら四句のすべてを否定するということも意味をもたない。したがって四句否定を形式論理の中で理解することは困難である。
むしろ、ある論議領域においてなりたっている一つの命題を、それと異なった、より高次な論議領域から否定してゆく過程として、四句否定は弁証法的な性格をもっていると考えなくてはならない。

応用面では次のような問題がある。

(一)先にあげたプラジュニャーカラマティ引用の詩頌、原因と結果、本体の問題などにおいては四句のすべては否定されている。しかし場合によっては第四句は否定されないことがある。
(二)四句のうち一句が省略されることがある。たとえば「自我があるともいわれ、自我はないとも説かれた。いかなる自我もなく無我もないとも諸仏は説いた」(一八・六)においては第三句にあたるものがない。
(三)四句は、程度の異なった知能や機根をもつものの同一の対象に関する異種類の見解であったり、程度の異なった被教化者に対する段階的な教訓であったりする。この後の場合には四句の初め三つの段階は方便的な教訓として認められ、とくに第四句は最高の真実を示す教えとして、最後まで否定されない。これらの場合には四句の弁証法的性格はかなりはっきりと読みとれる。

 たとえばバヴィヤの解釈では、直前にあげた一八・六のうち、第一句の「自我あり」というのはバラモン主義者たちの主張を表わし、第二句はローカーヤタ、チャールヴァーカ学派などが感官の対象のみを是認して推理の対象を認めず、享楽主義的な立場から自我の存在を否定することを表わし、第四句(順序の上からは第三句)は諸仏の教えを表わす。
バヴィヤはまた別の解釈をも与え、業・輪廻を否定する虚無主義者に対しては自我があると教え、我見にとらわれている者には自我はないと教え、仏教に深くはいった者に対しては空性の真理を悟らせるために、自我もなく無我もない、とブッダは教えるのだ、といっている。

教育的段階としての四句

ロビンソン教授も述べているように、直前に指摘した、教育的方法としての四句はバヴィヤだけでなく、青目やチャンドラキールティにも共通している。「すべては真実であり、あるいはまた真実でない、真実でありかつ真実でない、真実でないのでもなく真実でもない。これがブヅダの教説である」という詩頌二八・八)に対して、バヴィヤは、第一句は一般の理解(世俗)としての真理による教え、第二句は最高の真実(勝義)による教え、第三句はその二つの真理を複合した立場からの教え、第四句はヨーガ行者の神秘的直観の立場を表わすという。

 チャンドラキールティは、人々にブッダの全知性を尊敬させるために、すべては真実だと第一句を説き、変化するものは真実でなく、真実であるものは変化しないと教えるために、すべては真実でないと第二句を教え、第三に、ものは凡夫にとっては真実だが、聖者にとっては非実であると第三句を教え、すでに煩悩と誤った見解とからほとんど自由になった人に対して、子を生まない女の子供は白くもなく黒くもないように、すべての現象は真実でもなく真実でなくもないと第四句を教える、という。

 青目の注釈では、たとえば異なった色や味の流れが大海に入れば、一色一味となるように、しるしのない真実、空性を理解した人にとってはすべては空なるものとして真実である(第一句)。まだそこまで悟っていない人がいろいろな見解にしたがって存在を構想しているときには、すべてのものは真実でない。ただ依存的になりたっている非実のものである(第二句)。衆生には上・中・下の三種があって、上の者はもののしるしは実でなく不実でないと直観する(第四句)けれども、中のものは、すべては実であり不実であると考え、下のものは一部分は実、一部分は不実である、すなわち、涅槃は実であるが、生滅する制約されたものは不実であると考える(第三句)。第四句の非実非不実はこの第三句の実不実を否定するために説くのである、と。

 それぞれ理解の内容は違うけれども、これら注釈にしばしば共通していることは、第三句を、あるものは真実であるものは真実でない、と量化して、二つの特称命題の複合と見ていること、そして第四句をその第三句の否定と見ることである。第三句を量化するのは注釈者だけでなく、ナーガールジュナ自身も行なっている。それは『中論』第二十七章において、われわれの生命の流れが永続するか否かを論じ、神(天)であったものが人として生まれ変わる可能性に議論を進め、そのさい、神と人とが同一であるか(第一句)、同一でないか(第二句)を問題にする。こうして構成される四句の第三句に当たるものを、ナーガールジュナは、生まれ変わった人が一部分は神的で一部分は人間的である場合としている。

 この量化をたとえぱ先の真実の四句に導入すると、第一句は「すべてのものは真実である」という全称肯定命題、第二句は「いかなるものも真実でない」という全称否定命題である。第三句は「あるものは真実であり、あるものは真実でない」という、特称肯定命題と特称否定命題の複合形となる。第四句は第三句の要素命題の矛盾命題の複合で、「いかなるものも真実でなく、いかなるものも非実でない」という形になる。しかも「いかなるものも非実でない」(第四句後半)は、事実上「すべてのものは真実である」(第一句)と等しいから、第四句は全称肯定(第一句)と全称否定(第二句)の複合である。また第三、第四の両句については、第三の否定が第四、第四の否定が第三となるという相互関係が見られる。以上もロビンソン教授の解釈である。

四句否定の意味

 「すべてのものは真実である」「いかなるものも真実でない」「あるものは真実であるものは非実である」「いかなるものも真実でなく、いかなるものも非実でない」というものをはじめとする多種類の四句は、それぞれの問題に関するさまざまな人々の意見としてある。
けれども四句の一々の見解はそれをもつ人の特定の理論的立場、特定の論義領域においてのみなりたつ。いずれの命題も一定の条件の下でのみ肯定されたり否定されたりするのであって、無条件に、絶対的に真であることはできない。このように、四句のいずれをも絶対的なものとしては否定するのが四句否定の意味であり、中観の真理である、ということになる。

 「いかなるものも真実でなく、いかなるものも非実でない」という第四句は、最高の真実として中観の宗教的真理を示しているから、その限りにおいては否定されるべきものではない。けれどもその真理は第一句のなりたっている論議領域、あるいは第二、第三句と同一の領域において成立しているわけではない。いい換えれば、第四句も第一ないし第三句のなりたつ諸領域においては否定されるべき性質のものである。

 そのように中観の真理も世間の立場、一般的な論理の領域において真であるとはかぎらない、というところに、仏教者の無執着の精神を見ることができる。『般若経』では、空に執着するものに対しては、空をも空ずる必要のあることが強調されている。神秘的直観としての空を世間的な有の世界においてそのまま妥当すると考えることは危険である。そこに一般の理解(世俗)の世界と最高の真実(勝義)の世界とを弁別し、二つの領域を一応異なったものと自覚する必要が生じてくる。次章で詳しく述べるように、中観者が二つの世界の弁別を説くのはそのためである。もしそうとすれば、世間的な事物の処理に当たっては、ただ宗教的直観を誇示しても意味がなくて、方便として世間的な論理と知識を活用することの必要性も理解されてくる。すべてのものの空を悟った聖者がいま一度常識的な有の世界、一般の論理の世界を回復する、ということも、上述のような四句否定の精神から出てくるものである。

ディレンマの意味

四句否定においては量化が行なわれたが、ディレンマにおいてはけっして量化は行なわれない。というのは、ここではあくまでもものの本質についてのみ議論が行なわれるのだが、本質が部分的にAであり、部分的にBであることはありえない。先にあげた火と薪のディレンマで説明すれば、「ある薪は燃えていてある薪は燃えていない」ということは、薪の本質を燃えるものと同一であるか否かを論ずるディレンマにおいては許されない。因果関係その他で、AはBと同一か別異かと選言するときも、本質についての議論である。 その立場からすべての現象はAでもなくBでもない、といって、同一の原理で説明できないことを説くのである。それは同一の原理の無視ではなくて、ナーガールジュナの論理が現象の領域における論理ではなくて、本体を問題とする論理であることを示すのである。

 ナーガールジュナのディレンマの角の間をすり抜けることは必ずしもむずかしいことではない。たとえば一八・一が、「自我が身心と同一ならばそれは生滅するものとなる。自我が身心と異なるならばそれは存在しない」という形のディレンマに対しては、「自我が身心と同一ならばそれは存在する。自我が身心と異なるならばそれは生滅しない」と論ずれば、表面的には彼の議論を否定しうる。しかし角の間をすり抜けることができるのはただ形式的にであって、本質的にではない。あるいは現象の領域においてであって、本体の領域においてではない。恒常で生滅せず、しかも生滅する身心に内在する自我の本体の存在を証明しなければ、ほんとうの意味でナーガールジュナを反論したことにはならない。それは対論者にも不可能である。一方、自我ということばがあるからその対応物がある、という相手の立場は、自我という概念のもつ自己矛盾----本体と現象との矛盾----を指摘するナーガールジュナのディレンマによって破壊されるのである。

 同じことは、いわゆるナーガールジュナの前件否定あるいは後件肯定の誤謬についてもいえる。たとえば「もし行く者を離れて行くことがありえないならば、行くことがないならば、どこに行く者があろうか」(二・七)という仮言的論証は、「去者がなければ去はない。去はない、だから去者はない」と書けるが、ここでナーガールジュナは形式的には後件を肯定している。形式論理からすれば、仮言的論証の真なる形式はただ二つあるだけで、前件を肯定して後件を肯定ずるか、後件を否定して前件を否定するかのいずれかのみが正しい。いまの場合は「去はある、だから去者はある」か、「去者はない、だから去はない」という二つの推理しか可能でない。けれども、ナーガールジュナの本体の論理では、去者は行かないときもある主体ではなくて、去という作用を自己の本質としている。いわば、去者と去は本質的に一つである。この立場からは、去者があれば去は必ずあり、去があれば去者は必ずあるということも真であり、去があれば去者があり、去がなければ去者はない、ということも真である。

換質換位の問題

 仮言的論証の規則はもとより換質換位の法則と本質的には等しい。たとえば、結果があれば原因がある、という命題から、原因がなければ結果はない、と推理することはできるが、結果がなければ原因はない、とは推理できない。それは現象の世界では、煙のない火、芽を出さない種子も火であり、種子であるからである。ナーガールジュナにとっては、もし煙が本質的に火の結果であるといえるならば、火は必ず煙を伴うべきであるし、種子が本質的に芽の原因であれば、種子は必ず芽を出さなければならない。芽を出さない種子は種子でも、原因でもない。本体の論理では、原因は必ず結果を生ずるものであるから、原因があれぼ必ず結果はなくてはならない。

 先にみたようにナーガールジュナは、父が子を生じ、子が父を生ずる、という例や、結果は原因によってあり、原因は結果によってある、というようなことをいう。これも、現象の論理からみれば、因果関係と、論理的な根拠と根拠づけとの関係を混同していることにほかならない。父が子を生じることは原因と結果の関係であり、子があるから父があるというのは論理的な根拠づけであるからである。しかし、ナーガールジュナの本体の論理ではこの二つの関係の区別はない。

 本体というものは自己充足的な存在であるから、実は他と関係することはない。もしなんらかの関係があるとすれば、純粋・完全な同一性「AはAである」しかない。しかし現象の論理におけるいわゆる同一性は部分的な同一性を表わすだけである。「薪は燃えるものである」というとき、燃えていない薪と後に点火された薪とは異なっているけれども、その相違を無視してわれわれは薪と燃えるものとの同一性を主張する。しかしそのような部分的同一性は本体の世界では許されない。だから、たとえば説一切有部が本体を仮定して現象を説明しようとすることは本体の論理と現象の論理を混同していることである。さらにいえば、本体の世界には部分的関係の論理はなりたたないということをナーガールジュナは指摘して見せているのである。

名辞と実在

 ナーガールジュナが本体の論理と現象の論理の撞着が示すのは、彼が名辞と現実存在とが一致しないことを暴露することをその哲学の目的としていたからである。そのためにナーガールジュナは矛盾の原理をしばしば否定する。彼は矛盾の原理を十分に知っていたけれども、本体の世界においてその原理がなりたたないことを示すのである。「自我は存在もしないし存在しないのでもない」というように、二つの矛盾する命題がともに偽であることは形式論理では許されない。しかも、もし自我が現実には存在しない、つまり成員をもたない概念であれば、この二つの命題はともに偽であることも、ともに真であることもできる。「不死の人間は美しくもなく美しくなくもない」ということは、不死の人間そのものが存在しないときには立言できるはずである。

『般若経』の聖者や中観の哲学者は概念と実在との乖離を示すために、外延のない、つまり成員をもたない概念を喩えとして用いる。兎の角、亀の毛、虚空に咲く花など。 これらを主辞として対立した二つの述辞をともに否定する。たとえば、「兎の角は鋭くもないし鋭くなくもない」と。このような立言がなりたつのは兎の角が実在しない偽りの名辞であるからである

『般若経』の哲人も、ナーガールジュナも、兎の角や亀の毛だけが実在する成員のない名辞だというのではなくて、およそ名辞というものはすべて実在する本体をもたないというのである。ナーガールジュナの議論の名辞は変数であるから、ある議論における名辞は、他の任意の名辞によって置き換えることができる。つまり、一切の名辞は本体をもたず、空なのである

 以上、概観してきたナーガールジュナの論理の形式と本質は、彼を継いだ中観者たちによって必ずしも彼の意図どおりに正しく理解されなかった。そのような点については三章で述べることにする。


  1. 同一律、矛盾律、排中律という思考の三法則。同一律「AはAである」、矛盾律「Aは非Aでない」、排中律「AはBであるか非Bであるかのいずれかである」をいう。