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別伝

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べつでん

 不明。『西方指南抄』中末の「源空聖人私日記」か。(化巻 P.472)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

御開山帰洛の意図は、法然聖人の語録・事績の蒐集の為であったといわれる。経・論・釈は関東でも閲覧は可能であった。しかし、法然聖人の詳細な語録や法語は関東では入手が難しかったから帰洛されたのである。
御開山が法然聖人の事績や法語を編集し記述された『西方指南抄』下末には「康元元 丙辰 十一月八日 愚禿親鸞 八十四歳 書之」とあるのだが、手元に置いておられた法然聖人の「臨終行儀」によって、

勅免を蒙りて入洛して以後、空(源空)、洛陽の東山の西の麓、鳥部野の北の辺、大谷に居たまひき。同じき二年壬申寅月の下旬第五日午時に入滅したまふ。奇瑞称計すべからず。別伝に見えたり。

の「奇瑞称計すべからず。別伝に見えたり」の、別伝とは法然聖人の示寂を記した「源空聖人私日記」か「法然聖人臨終行儀」を指すのであろう。晩年の御開山は、『御消息』や『歎異抄』などで盛んに法然聖人について述されているのだが、梯實圓和上が『法然教学の研究』のはしがきで、

「江戸時代以来、鎮西派や西山派はもちろんのこと、真宗においても法然教学の研究は盛んになされてきたが宗派の壁にさえぎられて、法然の実像は、必ずしも明らかに理解されてこなかったようである。そして又、法然と親鸞の関係も必ずしも正確に把握されていなかった嫌いがある。その理由は覚如、蓮如の信因称報説をとおして親鸞教学を理解したことと、『西方指南抄』や醍醐本『法然聖人伝記』『三部経大意』などをみずに法然教学を理解したために、両者の教学が大きくへだたってしまったのである。しかし虚心に法然を法然の立場で理解し、親鸞をその聖教をとおして理解するならば、親鸞は忠実な法然の継承者であり、まさに法然から出て法然に還った人であるとさえいえるのである。」

と、おっしゃるように、御開山は法然聖人から出でて法然聖人の「選択本願念仏」の、なんまんだぶを称えて往生浄土という成仏法に還った人であった。

誓願一仏乗