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唯信鈔文意(正嘉本)

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Ⅱ-0683唯信鈔文意
「唯信鈔」といふは、「唯」はたゞこのことひとつといふ、ふたつならぶことをきらふことばなり。また「唯」はひとりといふこゝろなり。「信」はうたがひなきこゝろなり、すなわちこれ眞實の信心也、虛假はなれたるこゝろなり。虛はむなしといふ、假はかりなるといふことなり。虛は實ならぬをいふ、假は眞ならぬをいふ也。本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを唯信といふ。「鈔」はⅡ-0684すぐれたることをぬきいだしあつむることば也。このゆへに唯信鈔といふ也。また「唯信」は、これこの他力の信心のほかによのことならはずとなり。すなわち本弘誓願なるがゆへなればなり。
「如來尊號甚分明  十方世界普流行
但有稱名皆得往  觀音勢至自來迎」(五會法*事讚)
「如來尊號甚分明」、このこゝろは、「如來」とまふすは无㝵光如來也。「尊號」とまふすは南无阿彌陀佛なり。「尊」はたふとくすぐれたりと也。「號」は佛になりたまふてのちの御なをまふす、名はいまだ佛になりたまはぬときの御なをまふす也。この如來の尊號は、不可稱不可說不可思議にましますゆへに、一切衆生をして无上大般涅槃にいたらしめたまふ大慈大悲のちかひの御號なり。この佛の御なは、よろづの如來の名號にすぐれたまへⅡ-0685り。これすなわち誓願なるがゆへなり。「甚分明」といふは、「甚」ははなはだといふ、すぐれたりといふこゝろ也。「分」はわかつといふ、よろづの衆生とわかつこゝろ也。「明」はあきらかなりといふ。十方一切衆生をことごとくわかちたすけみちびきたまふことあきらかなり。あわれみたまふことすぐれたまへりと也。「十方世界普流行」といふは、「普」はあまねく、ひろく、きわなしといふ。「流行」は十方微塵世界にあまねくひろまりて、佛敎をすゝめ行ぜしめたまふ也。しかれば、大乘の聖人・小乘の聖人、善人・惡人・一切凡夫、みⅡ-0686なともに自力の智慧をもては大涅槃にいたることなければ、无㝵光佛の御かたちは、智慧のひかりにてましますゆへに、この如來の智願海にすゝめいれたまふ也。一切諸佛の智慧をあつめたまへる御かたち也。光明は智慧也としるべし。「但有稱名皆得往」といふは、「但有」はひとへに御なをとなふるひとのみ、みな極樂淨土に往生すとなり。かるがゆへに稱名皆得往とのたまへるなり。「觀音勢至自來迎」といふは、南无阿彌陀佛は智慧の名號なれば、この不可思議の智慧光佛の御なを信受して憶念すれば、觀音・勢至はかならずかげのかたちにそえるがごとく也。この无㝵光佛は觀音とあらわれ、勢至としめす。ある經には、觀音を寶應聲菩薩となづけて日天子としめす。これはよろづの衆生の无明の黑闇をはⅡ-0687らわしむ。勢至を寶吉祥菩薩となづけて月天子とあらわる。生死の長夜をてらして智慧をひらかしむる也。「自來迎」といふは、「自」はみづからといふ。彌陀无數の化佛・无數の化觀音・化大勢志等の无量无數の聖衆みづからつねに、ときをきらはず、ところをへだてず、眞實信心をえたる人にそひたまひてまもりたまふゆへに、みづからとまふす也。また「自」はおのづからといふ。おのづからといふは自然といふ。自然といふはしからしむといふ。しからしむといふは、行者のはじめてともかくもはからはざるに、過去・今生・Ⅱ-0688未來の一切のつみを善に轉じかへなすといふなり。轉ずといふは、つみをけしうしなはずして善になす也、よろづの水大海にいればすなわちうしほとなるがごとし。彌陀の願力を信ずるゆへに、如來の功德をえしむるがゆへに、しからしむといふ。はじめて功德をえむとはからはざれば自然といふ也。誓願眞實の信心をえたる人は、攝取不捨の御ちかひにおさめとりてまもらせたまふによりて行人のはからひにあらず、金剛の信心となるゆへに正定聚のくらゐに住すといふ。このこゝろになれば憶念の心自然におこるなり。この信心のおこることも、釋迦の慈父・彌陀の悲母の方便によりて无上の信心を發起せしめたまふとみえたり。これ自然の利益也としるべし。「來迎」といふは、「來」は淨土へきたらしむといふ、これすなわち若Ⅱ-0689不生者のちかひをあらはす御のり也。穢土をすてゝ眞實の報土にきたらしむと也、すなわち他力をあらはす御ことなり。また「來」はかへるといふ。かへるといふは、願海にいりぬるによりてかならず大涅槃にいたるを、法性のみやこへかへるとまふす也。法性のみやこといふは、法身とまふす如來のさとりを自然にひらく也、さとりひらくときを法性のみやこへかへるとまふす也。これを、眞如實相を證すともいふ、无爲法身ともいふ、滅度にいたるともいふ、法性の常樂を證すともいふ、无上覺にいたるともまふす也。このⅡ-0690さとりをうれば、すなわち大慈大悲きわまりて生死海にかへりいりてよろづの有情をたすくるを、普賢の德に歸せしむといふ也。この利益におもむくを來といふ。これを法性のみやこへかへるといふなり。「迎」といふはむかへたまふといふ、まつといふこゝろ也。選擇不思議の本願の尊號、无上智慧の信心をきゝて、一念もうたがふこゝろなければ眞實信心といふ。この信心をうれば、等正覺にいたりて補處の彌勒におなじくして无上覺をなるべしといへり、すなわち正定聚のくらゐにさだまるなり。このゆへに信心やぶれず、かたぶかず、みだれぬこと金剛のことなりと。しかれば金剛の信心といふ也。『大經』(卷下)には、「願生彼國、卽得往生、住不退轉」とのたまへり。「願生彼國」は、かのくにゝむまれむとねがへとⅡ-0691也。「卽得往生」は、信心をうればすなわち往生すといふ。すなわち往生すといふは不退轉に住するをいふ。不退轉に住すといふはすなわち正定聚のくらゐにさだまるなり、成等正覺ともいへり。これを卽得往生といふ也。「卽」はすなわちといふ。すなわちといふは、ときをへず、日をへだてぬをいふなり。おほよそ十方世界にあまねくひろまることは、法藏菩薩の四十八の大願の中に、第十七の願に、十方无量の諸佛にわがなをほめられ、となえられむとちかひたまえる、一乘大智海の誓願を成就したまへるによりて也。『阿彌陀經』のⅡ-0692證誠護念のありさまにてあきらかなり。證誠護念の御こゝろは、『大經』にもあらわれたり。すでに稱名の本願は選擇の正因たること、悲願にあらわれたり。この文のこゝろはおもふほどはまふさず。これにておしはからせたまふべし。この文は、後善導法照禪師とまふす聖人の御釋也。この和尙おば法道和尙と、慈覺大師はのたまへり。また『傳』には廬山の彌陀和尙ともまふす、淨業和尙ともまふす。唐朝の光明寺の善導和尙の化身なり、このゆへに後善導とまふすなり。
「彼佛因中立弘誓  聞名念我總迎來
不簡貧窮將富貴  不簡下智與高才
不簡多聞持淨戒  不簡破戒罪根深
但使廻心多念佛  能令瓦礫變成金」(五會法*事讚)
「彼佛因中立弘誓」、このこゝろは、「彼」はかのとⅡ-0693いふ。「佛」は阿彌陀佛なり。「因中」は法藏菩薩とまふししとき也。「立弘誓」は、「立」はたつといふ、なるといふ。「弘」はひろしといふ、ひろまるといふ。「誓」はちかひといふ。法藏比丘、超世无上のちかひをおこして、ひろくひろめたまふと也。超世は、よの佛の御ちかひにすぐれたまへりと也。超はこえたりといふ、うえなしとなり。如來の弘誓をおこしたまへるやうは、この『唯信鈔』にくわしくあらわせり。「聞名念我」といふは、「聞」はきくといふ、信心をあらわす御のり也。「名」は如來のちかひの名號なり。「念我」とまふすは、こⅡ-0694のみなを憶念せよと也。諸佛稱名の悲願にあらわせり。憶念といふは、信心まことなる人は本願をつねにおもひいづるこゝろのたえずつねなるなり。「總迎來」といふは、「總」はふさねてといふ、すべてみなといふこゝろ也。「迎」はむかふるといふ、まつといふ、他力をあらはすこゝろ也。「來」はかへるといふ、きたるといふ、法性のみやこへむかへゐてかへらしむと也。法性のみやこより、衆生利益のために娑婆界にきたりたまふゆへに、「來」をきたるといふ也。『經』(大經*卷下)には「從如來生」とのたまへり、「從如」といふは眞如よりとまふす、「來生」といふはきたり生ずといふなり。「不簡貧窮將富貴」といふは、「不簡」はえらばずといふ、きらはずといふこゝろ也。「貧窮」はまづしく、たしなき也。「將」はまさにといふ、もてといⅡ-0695ふ、ゐてゆくといふ。「富貴」はとめるといふ、よきひとゝいふ。これらをまさにもてえらばず、淨土へゐてゆくと也。「不簡下智與高才」といふは、「下智」は智慧あさく、せばく、すくなきものなり。「高才」は才學ひろきもの。これらをえらばずと也。「不簡多聞持淨戒」といふは、「多聞」は聖敎をひろくおほくきゝ、信ずる也。「持」はたもつといふ。たもつといふは、ならいまなぶことをうしなわず、ちらさぬ也。「淨戒」は大乘小乘のもろもろの戒法、五戒、八戒、十善戒、小乘の具足戒、三千の威儀、六萬の齋行、大乘の一心金剛法戒、三Ⅱ-0696聚淨戒、『梵網』の五十八戒等、すべて道俗の戒品、これらをたもつを持といふ、これらの戒品をやぶるを破といふ也。かやうのさまざまの大小の戒品をたもてるいみじきひとびとも、他力眞實の信心をえてのちに眞實の報土には往生をとぐる也。みづからの、おのおのの戒善、おのおのの自力の信、自力の善にては實の報の淨土にはむまれずとしるべし。「不簡破戒罪根深」といふは、「破戒」はかみにあらわすところのよろづの道俗の戒品をうけてやぶりすてたるもの、これらをきらはずと也。「罪根深」といふは、十惡・五逆の惡人、謗法・闡提の罪人、おほよそ善根すくなきもの、惡業おほきもの、善心あさきもの、惡心ふかきもの、かやうのあさましきさまざまのつみふかき人を深といふ、ふかしといふことば也。すべてよき人あしきⅡ-0697人、たふときひといやしきひとを、无㝵光佛の御ちかひにはえらばず、これをみちびきたまふをさきとしむねとする也。眞實信心をうれば實報土にむまるとおしえたまへるを、淨土眞宗とすとしるべし。「總迎來」といふは、すべてみな眞實信樂あるものを淨土へむかへゐてかへらしむとなり。「但使廻心多念佛」といふは、「但使廻心」はひとへに廻心せしめよといふことば也。「廻心」といふは自力の心をひるがへし、すつるをいふ也。實報土にむまるゝ人はかならず无㝵光佛の心中におさめとりたまふゆへに金剛の信心となるなり。このゆⅡ-0698へに多念佛とまふす也。「多」は大のこゝろ也、勝のこゝろ也、增上のこゝろ也。大はおほき也。勝はすぐれたり、よろづの善にまされりとしるべし。增上はよろづの善にすぐれたるなり。これすなわち他力本願のゆへ也。自力のこゝろをすつといふは、やうやうさまざまの大小の聖人・善惡の凡夫の、みづからがみをよしとおもふこゝろをすて、みをたのまず、あしきこゝろをさかしくかへりみず、またひとをあしよしとおもふこゝろをすてゝ、ひとすぢに具縛の凡夫・屠沽の下類、无㝵光佛の不可思議の誓願、廣大智慧の名號を信樂すれば、煩惱を具足しながら无上大涅槃にいたるなり。具縛といふはよろづの煩惱にしばられたるわれらなり。煩はみをわづらはす、惱はこゝろをなやますといふ。屠はよろづのいきたるものⅡ-0699をころし、ほふるもの、これはれうしといふものなり。沽はよろづのものをうりかうもの也、これはあき人也。これらを下類といふなり。かやうのあき人・れうし、さまざまのものはみな、いし・かわら・つぶてのごとくなるわれら也。「能令瓦礫變成金」といふは、「能」はよくといふ。「令」はせしむといふ。「瓦」はかわらといふ。「礫」はつぶてといふ。「變成金」は、「變成」はかへなすといふ。「金」はこがねといふ。如來の本願を信ずれば、かわら・つぶてのごとくなるわれらを、こがねにかえなさしむとたとへたまへる也。あきⅡ-0700人・れうしなむどは、いし・かわら・つぶてのごとくなるを、如來の攝取のひかりにおさめとりたまふてすてたまはず、これひとへにまことの信心のゆへなればなりとしるべし。文のこゝろはおもふほどはまふしあらはし候はねども、あらあらまふす也。ふかきことはよからむ人にもとはせたまふべし。この文は、慈愍三藏とまふす天竺の聖人の御釋也。震旦には惠日三藏とまふすなり。
「極樂无爲涅槃界  隨縁雜善恐難生
故使如來選要法  敎念彌陀專復專」(法事讚*卷下)
「極樂无爲涅槃界」といふは、「極樂」とまふすはかの安養淨土なり、よろづのたのしみつねにして、くるしみまじわらざる也。かのくにおば安養といⅡ-0701へり。曇鸞和尙は、ほめたてまつりて安養とまふすとのたまへり。また『論』(淨土論)には、「蓮華藏世界」ともいへり、「无爲」ともいへり。「涅槃界」といふは无明のまどひをひるがへして、无上覺をさとる也。「界」はさかいといふ、さとりをひらくさかいなりとしるべし。涅槃とまふすに、その名无量なり、くはしくまふすにあたはず、おろおろその名をあらはすべし。「涅槃」おば滅度といふ、无爲といふ、安樂といふ、常樂といふ、實相といふ、法身といふ、法性といふ、眞如といふ、一如といふ、佛性といふ。佛性すなわち如來也。Ⅱ-0702この如來、微塵世界にみちみちたまへり、すなはち一切群生海の心にみちたまへる也、草木國土ことごとくみな成佛すととけり。この一切有情の心に方便法身の誓願を信樂するがゆへに、この信心すなわち佛性なり、この佛性すなわち法性なり、この法性すなわち法身なり。しかれば佛について二種の佛身まします、一には法性法身とまふす、二には方便法身とまふす。法性法身とまふすは、いろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こゝろもおよばず、ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらわして、方便法身とまふすその御すがたに、法藏比丘となのりたまひて、不可思議の四十八の大誓願をおこしあらわしたまふなり。この誓願の中に、光明无量の本願、壽命无量の弘誓を本としてあらわれたまへる御Ⅱ-0703かたちを、世親菩薩は盡十方无㝵光如來となづけたてまつりたまへり。この如來すなわち誓願の業因にむくひたまひて報身如來とまふすなり、すなわち阿彌陀如來とまふす也。報といふは、たねにむくひたるゆへ也。この報身より應・化等の无量无數の身をあらわして、微塵世界に无㝵の智慧光をはなたしめたまふゆへに盡十方无㝵光佛とまふすひかりの御かたちにて、いろもましまさず、かたちもましまさず、すなわち法性法身におなじくして、无明のやみをはらひ惡業にさえられず、このゆへに无㝵光とまふす也。无㝵は有Ⅱ-0704情の惡業煩惱にさえられずと也。しかれば、阿彌陀佛は光明なり、光明は智慧のかたち也としるべし。「隨縁雜善恐難生」といふは、「隨縁」は衆生のおのおのの縁にしたがひて、もろもろの善を修するを極樂に廻向するなり、すなわち八萬四千の法門也。これはみな自力の善根なるゆへに實報土にはむまれずと、きらわるゝゆへに恐難生といへり。「恐」はおそるといふ、實報土に雜善・自力の善むまるといふことをおそるゝ也。「難生」はむまれがたしと也。「故使如來選要法」といふは、釋迦如來、よろづの善のなかより名號をえらびとりて、五濁惡時・惡世界・惡衆生・邪見無信のものにあたえたまへる也としるべし。これを選といふ、ひろくえらぶといふこゝろ也。「要」はもはらといふ、もとむといふ、ちぎるといふ也。「法」Ⅱ-0705といふは名號なり。「敎念彌陀專復專」といふは、「敎」はおしふといふ、のりといふ、釋尊の敎敕也。「念」は心におもひさだめて、ともかくもはたらかぬこゝろ也。すなわち選擇本願の名號を一向專修なれとおしえたまふ御こと也。「專復專」といふは、はじめの「專」は一行を修すべしと也。「復」はまたといふ、かさぬといふ。しかれば、また「專」といふは一心なれと也、一行一心をもはらなれと也。「專」は一といふことば也。もはらといふはふたごゝろなかれと也。ともかくもうつるこゝろなきを專といふ也。この一行一心なるひⅡ-0706とを「彌陀攝取してすてたまはざれば阿彌陀となづけたてまつる」(禮讚意)と、光明寺の和尙はのたまへり。この一心は橫超の信心也。橫はよこさまといふ、超はこえてといふ。よろづの法にすぐれて、すみやかにとく生死の大海をこえて无上覺にいたるゆへに超とまふす也。これすなわち如來大悲の誓願力なるゆへ也。この信心は攝取のゆへに金剛心となる。これは念佛往生の本願の三信心也、『觀經』の三心にはあらず。この眞實信心を、世親菩薩は願作佛心とのたまへり、これ淨土の大菩提心なり。しかればこの願作佛心はすなわち度衆生心なり。この度衆生心とまふすは、すなわち衆生をして生死の大海をわたすこゝろ也。この信樂は衆生をして无上大涅槃にいたらしむる心也。この信心すなわち大慈大悲心也。このⅡ-0707信心すなわち佛性也、すなわち如來也。この信心をうるを慶喜といふ。慶喜するひとは諸佛とひとしきひととなづく。慶はうべきことをえてのちによろこぶこゝろ也、信心をえてのちによろこぶ也。喜はこゝろのうちにつねによろこぶこゝろたえずして憶念つねなり。踊躍するなり。踊は天におどるといふ、躍は地におどるといふ、よろこぶこゝろのきわまりなきかたちをあらわす也。信心をえたる人おば、「芬陀利華」(觀經)にたとえたまへり。この信心をえがたきことを、『大經』(卷下)には、「若聞斯經信樂受持、難中之難无過此難」とⅡ-0708おしへたまえり。『小經』(稱讚淨*土經)には「極難信法」とみえたり。この文のこゝろは、この經をきゝて信ずること、かたきが中にかたし、これにすぎてかたきことなしと也。釋迦牟尼如來は、五濁惡世にいでゝこの難信の法を行じて无上涅槃にいたれりとゝきたまふ。さてこの智慧の名號を濁惡の衆生にあたえたまへり。十方諸佛の證誠、恆砂如來の護念、ひとえに眞實信心のひとのため也。釋迦は慈父、彌陀は悲母、われらがちゝ・はゝとして信心をおしえたまへりとしるべき也。過去久遠に、三恆河沙の諸佛のよにいでたまひしみもとにして、自力の大菩提心をおこしき。恆沙の善根を修せしめしによりて、いま大願業力にまうあふことをえたり。他力の三信心をえたらむ人は、ゆめゆめ餘の善をそしり、餘の佛聖をいやしふすⅡ-0709ることなかれと也。
「具三心者必生彼國」(觀經)といふは、三心を具すればかならずかのくにゝむまると也。しかれば善導は、「具此三心必得往生也、若少一心卽不得生」(禮讚)とのたまへり。「具此三心」といふは、みつの心を具すべしと也。「必得往生」といふは、「必」はかならずといふ。「得」はうるといふ、うるといふは往生をうると也。「若少一心」といふは、「若」はもしといふ、ごとしといふ。「少」はかくるといふ、すくなしといふ。一心かけぬればむまるゝものなしと也。一心かくるといふは信心のかくる也、Ⅱ-0710信心かくるといふは本願眞實の三信のかくる也。『觀經』の三心をえてのちに『大經』の三信心をうるを、一心をうるとはいふ也。このゆへに『大經』の三信をえざるおば、一心かくるといふ也。この一心かけぬれば、實報土にむまれずと也。『觀經』の三心は定機散機の自力心也。定散の二善を廻して、『大經』の三信をえむとねがふ方便の深心と至誠心としるべし。眞實の三信心をえざれば眞の報土にむまれざれば、卽不得生といふ也。「卽」はすなわちといふ、「不得生」はむまるゝことをえずといふ也。定機・散機の人、雜行雜修して三信心かけたるゆへに、多生曠劫をへて三信心をえてのちにむまるべきゆへに、すなわちむまれずといふ也。もし胎生邊地にむまれても五百歲をへ、あるいは億千萬衆のなかに、ときにまⅡ-0711れに一人、まことの報土にはすゝむとみえたり。三信をえむことをよくよくこゝろへてねがふべき也。
「不得外現賢善精進之相」(散善義)といふは、淨土をねがふひとは、あらはに、かしこきすがた、善人のかたちをふるまはざれ、精進なるすがたをしめすことなかれと也。そのゆへは「内懷虛假」なればなり。「内」はうちといふ。こゝろのうちに煩惱を具せるゆへに虛なり、假なり。「虛」はむなしくして實ならず。「假」はかりにして眞ならず。しかⅡ-0712れば、いまこの世を如來の御のりに末法惡世とさだめたまへるゆへは、一切有情まことのこゝろなくして、師長を輕慢し、父母に孝せず、朋友に信なくして、惡をのみこのむゆへに、世間・出世みな「心口各異、言念无實」(大經*卷下)なりとおしえたまへり。「心口各異」といふは、こゝろとくちにいふこと、みなおのおのことなりと。「言念無實」といふは、ことばとこゝろのうちと實なしといふ也。「實」はまことゝいふことばなり。この世のひとは無實のこゝろのみにして、淨土をねがふひとはいつわり、へつらいのこゝろのみなりときこえたり。よをすつるも名のこゝろ、利のこゝろをさきとするゆへ也。しかれば、われらは善人にもあらず、賢人にもあらず。精進のこゝろもなし、懈怠のこゝろのみにして、うちはむなしく、いつわり、Ⅱ-0713かざり、へつらうこゝろのみつねにして、まことなるこゝろなきみとしるべし。「斟酌すべし」(唯信鈔)といふは、ことのありさまにしたがふて、はからふべしといふことばなり。
「不簡破戒罪根深」(五會法*事讚)といふは、もろもろの戒をやぶり、つみふかきひとをきらはずと也。このやうは、かみにくはしくあかせり。よくみるべし。
「乃至十念若不生者不取正覺」(大經*卷上)といふは、選擇本願の文也。この文のこゝろは、乃至十念のちかひの名號をとなえむひと、もしわがくにゝむⅡ-0714まれずは、佛にならじとちかひたまへる也。「乃至」は、かみしも、おほきすくなき、ちかきとおきひさしきおも、みなおさむることば也。多念にこゝろをとゞめ、一念にとゞまるこゝろをやめむがために、未來の衆生をあわれみて、法藏菩薩かねて願じまします御ちかひなり。よくよくよろこぶべし、慶樂すべき也。
「非權非實」(唯信鈔)といふは、法華宗のおしえなり。淨土眞宗のこゝろにあらず、聖道家のこゝろ也、易行道のこゝろにあらず。かの宗の人にたづぬべし。
「汝若不能念」(觀經)といふは、五逆・十惡の罪人、不淨說法のもの、やまうのくるしみにとぢられて、こゝろに彌陀を稱念したてまつらずは、たゞくちに南无阿彌陀佛ととなえよとすゝめたまⅡ-0715へる御のりなり。これは口稱を本願とちかひたまへるをあらわさむとなり。「應稱无量壽佛」(觀經)とのたまへるは、このこゝろなり。「應稱」はとなふべしとなり。「具足十念、稱南无無量壽佛、稱佛名故、於念念中除八十億劫生死之罪」(觀經意)といふは、五逆の罪人はそのみにつみをもてること、と八十億劫のつみをもてるゆへに、十念南无阿彌陀佛ととなふべしとすゝめたまへるなり。一念にと八十億劫のつみをけすまじきにはあらねども、五逆のつみのおもきほどをしらせむがためなり。「十念」といふは、たゞくちに十返をとなふべしとⅡ-0716也。しかれば、選擇本願には、「若我成佛、十方衆生、稱我名號下至十聲、若不生者不取正覺」(禮讚)とまふすは、彌陀の本願には、「下至」といえるは、「下」は上に對して、とこゑまでの衆生かならず往生すとしらせたまへる也。念と聲とはひとつこゝろ也。念をはなれたる聲なし、聲をはなれたる念なしとしるべし。
この文どものこゝろは、おもふほどはまふさず、よからむ人にたづぬべし。ふかきことは、これにてもおしはかりたまふべし。
南无阿彌陀佛
ゐなかの人々の、文字のこゝろもしらず、あさましき愚癡きわまりなきゆへに、やすくこゝろえさせむとて、おなじことを、たびたびとりかへしとりかへしかきつけたり。こゝろあらむ人は、おかⅡ-0717しくおもふべし、あざけりをなすべし。しかれども、おほかたのそしりをかへりみず、ひとすぢにおろかなるものを、こゝろえやすからむとてしるせるなり。
本云正嘉元歲丁巳八月十九日
愚禿親鸞W八十五歲R書之