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六即

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天台の六即

『摩訶止觀』卷第一下で、修行の過程を六つの位に分けて説く。浄土系の諭書にも散見される言葉なのでUPしておく。

若無信 高推聖境 非己智分。若無智 起増上慢 謂己均佛。初後倶非。
爲此事故 須知六即。謂理即。名字即。觀行即。相似即。分眞即。究竟即
此六即者。始凡終聖。始凡故除疑怯。終聖故除慢大 云云

若し信無くば、高く聖境を推して己の智分に非ずとし、若し智なくば、増上慢を起して己れ仏に均しと謂う。初後倶に非なり。此の事の為の故に須く六即を知るべし。
謂く理即、名字即、觀行即、相似即、分眞即、究竟即なり。
此の六即は凡に始まり聖に終わる。凡に始まるが故に疑怯を除き、聖に終わるが故に慢大を除くと云云。

天台宗では、すべての存在は本来的に三千の諸法(あらゆるものごと)を足らないものなく具えているので、体そのものからいえば仏も衆生も同等であるが、修行の階位からいえば差異があるという点で六即の説を立てる。即ち

(1)すべての衆生はことごとく三千三諦の理を具えて、欠けることのないのを理即、
(2)仏法を聞いて三千三諦の理を概念(名字)として理解し、仏教を疑わないのを名字即、
(3)三千三諦の理を念々に観じつづけてゆくのを観行即(外凡五品弟子位)、
(4)それによって三界のうちで起こす見思の惑が尽き、六根がきよらかになって真のさとりに相似するのを相似即(内凡六根清浄位)、
(5)三千三諦の観が徹底して無明の惑がようやく晴れ、真如の一部分が身に顕れたのを分証即(分真即ともいう、初住から等覚までの四一位)、
(6)完全にさとりつくして真如のすべてが顕れたのを究寛即(妙覚位)とし、

これによっていたずらに自己が仏と同等であると考える増上慢(おもいあがり)に陥ることなく、また自己は仏になり得ないと考える卑屈から免れるという。(仏教学辞典p.311より)