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いはれ

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名号のいわれを聞いただけでは助からない。

鈴木大拙氏は「名号論」で、

親鸞はまた少しへだてて『往生礼讃』中から同じような意味の偈文を引用している。曰く、

「弥陀智願海深広無涯底、聞名欲往生皆悉到彼国。設満大千火直過聞仏名」「隠/顕」
「弥陀の智願海は、深広にして涯底なし。名を聞きて往生せんと欲へば、みなことごとくかの国に到る。たとひ大千に満てらん火にも、ただちに過ぎて仏の名を聞け」 行巻 P.162

 「弥陀の智願海は深広で涯底がない」というが、その涯底のないところから招喚の声が聞かれる。これを聞くことは直ちに弥陀の智願海に飛びこむことである。娑婆で有限性・対峙性のものにのみ取囲まれているものが、深広無底の智海に没入して、それから智慧清浄の業を起すことは歓喜のきわみでなくてはならぬ。火は大千に満ちていようとも、そんなものは直ちに飛びこえられねばならぬであろう。名号は弥陀の智海そのものであるから、それを聞くことが即ち智海に入ることなのである。名号の「()はれ」というようなものを聞くのでない。名号そのものを聞くのである。「謂はれ」は思惟である。思惟のために大千に満てる火に飛び入る勇気は出ない(大経 P.81)。そんな決意は、思惟以上である。絶体絶命の決意は、思惟を尽くしても(つか)み能わぬものがあるので、水火をも辞せぬということになる。弥陀招喚の声は思惟を絶したもの、「謂はれ」などの閑妄想を容れ能うものであってはならぬ。これはどうしても、全存在を投げ出して聞きとられぬばならぬ。これは一念の世界である。念念相続の意識界を突破したときの消息である。名号を聞いてそれから一心称念では遅八刻[1]である。そんなことをしていたら弥陀招喚の声は、「智願海」の涯りなき向う岸に消え去ってしまう。一心称念も非思量(ひしりょう)[2]の処、聞名号も非思量の処。非思量には思量・計較・情謂を容れる余地がない。聞名即称名、称名即聞名でなくてはならぬ。そうでないと往還二相の廻向がわからなくなる。
hwiki:浄土系思想論─名号論

と述べておられた。 大峯顕師も、

たとえば、お説教で、名号のおいわれを聞くといいますけれど、おいわれを聞いただけでは助からんので名号そのものを聞かなくちゃならない。 名号のおいわれを聞くという考え方は従来の言語論でありまして、その場合には言葉はまだ符合〔符号or記号か?〕もしくは概念にとどまっている。「南無阿弥陀仏」の裏に仏の本願があって、それに救われるというだけでは、名号そのものに救われるということは出てこない。
名号のいわれを聴くということだと、名号とそして名前にこもっている事柄とが別々のものになってしまう。いわれというものは本来名号をはなれてはないわけで、その両方が一体、名体不二と言葉では一応いわれておりますが、そういう名体不二ということが本当に理解されているかどうかと思うわけです。
hwiki:親鸞における「言葉」

と述べておられた。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ


  1. 遅八刻(ち-はっこく)。時すでに遅し。
  2. すべての相対的な観念を捨てた無分別の境地。