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つねに諸仏および諸仏の大法を念ずれば、必定して希有の行なり

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つねに諸仏…行なりから転送)

つねにしょぶつおよびしょぶつのたいほうをねんずれば、ひつじょうしてけうのぎょうなり

 通常は「つねに諸仏および諸仏の大法と、必定希有の行を念ず」と読む。(行巻 P.148)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

『十住毘婆沙論』の偈頌の当面は、

常念於諸仏 及諸仏大法
常に諸仏および諸仏の大法と、
必定希有行 是故多歓喜
必定と稀有の行を念ず。この故に歓喜多し。(*)

とある偈文を御開山は以下のように訓じられた。

常念於諸仏 及諸仏大法
つねに諸仏および諸仏の大法を念ずれば、
必定希有行 是故多歓喜
必定して希有の行なり。この故に歓喜多し。(行巻 P.148)

原文では、仏道を成じた諸仏の修された大法と必定である希有の行を念ずる意である。これを御開山は、諸仏 (第十七願名号を讃嘆される諸仏) が諸仏の大法 (本願の名号) である、必定希有大行である〔なんまんだぶ〕を称念(行)ずることが、成仏の法であるとされた。
それ故に「念仏成仏」の〔なんまんだぶ〕を称える法の歓喜の思いが多いとされた。本願成就文の「その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心回向したまへり。(聞其名号、信心歓喜、乃至一念。至心廻向)」の歓喜であった。

希有の行を念ずといふは、必定の菩薩、第一希有の行を念ずるなり。心に歓喜せしむ。一切凡夫の及ぶことあたはざるところなり。一切の声聞・辟支仏の行ずることあたはざるところなり。(行巻 P.149)

である「第十七願」の諸仏による能詮の教・所詮の行であるから「一切凡夫」の思いも及ばない「一切の声聞・辟支仏の行ずることあたはざる」仏の行であるから「大行」なのである。『愚禿鈔』で、

 本願一乗は、頓極頓速円融・円満の教なれば、絶対不二の教、一実真如の道なりと、知るべし。専がなかの専なり、頓がなかの頓なり、真のなかの真なり、円のなかの円なり。一乗一実は大誓願海なり。第一希有の行なり。(愚禿上 P.507)

とされる所以である。


第一希有の行
いま…かくのごとし
誓願一仏乗