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このことわりなんどにばし

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 この説などにでも。(歎異抄 P.850)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

『選択集』の念声是一釈に、

しかのみならず『大集月蔵経』にのたまはく、「大念は大仏を見、小念は小仏を見る」と。感師(懐感)の『釈』(群疑論)にいはく、「大念といふは大声に仏を念じ、小念といふは小声に仏を念ずるなり」と。ゆゑに知りぬ、念はすなはちこれ唱なりと。(選択本願念仏集 P.1213)

とある。

『大方等大集經』卷第四十三には

更莫他縁念其餘事。
さらに他の縁の、その余のことを念ずるなかれ。
或一日夜或七日夜。不作餘業至心念佛。乃至見佛 小念見小 大念見大
あるいは一日夜、あるいは七日夜、余の業を作さず、至心に仏を念(念仏)ぜんに、乃至仏を見んこと、小念には小を見、大念には大を見ん。
乃至無量念者 見佛色身無量無邊。彼佛身形三十二相。
乃至無量の念は、仏の色身は、無量無辺にして、かの仏の身形に三十二相あるを見ん。(*)

とある。ここでは念仏とは心念の意であるが、衆生の側の作為を「小念見小 大念見大」の語にみようとしたのであろう。

国訳