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摂取不捨

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せっしゅふしゃ

 『観経』の真身観に説かれている。阿弥陀仏が、念仏の行者を光明(こうみょう)のなかにおさめ救いとって決して捨てないこと。親鸞聖人は、これを阿弥陀仏という名のいわれとする。(観経 P.102,一多 P.679要集 P.890要集 P.893要集 P.1098)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

  • 摂取不捨((おさ)め取って捨てず)。

『観経』真身観で、無量寿仏(阿弥陀仏)の光明を讃嘆し、

一一光明 遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨。
一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず。 (観経 P.102)

と、阿弥陀仏は念仏の衆生を、その光明(智慧)の中に摂(おさ)め取って決して捨てないと説かれている。 御開山は『尊号真像銘文』で、

如来より御ちかひをたまはりぬるには、尋常の時節をとりて臨終の称念をまつべからず、ただ如来の至心信楽をふかくたのむべしとなり。
この真実信心をえんとき、摂取不捨心光に入りぬれば、正定聚の位に定まるとみえたり。(尊号 P.644)

と、摂取不捨であるから正定聚に定まるとされておられた。
御開山は『観経』に隠顕をみられるのだが、

またこの『経』(観経)に真実あり。これすなはち金剛の真心を開きて、摂取不捨を顕さんと欲す。(化巻 P.393)

と、金剛の真心と摂取不捨を真実であるとみておられた。

また、「弥陀経讃」で、

十方微塵世界
 念仏の衆生をみそなはし
 摂取してすてざれば
 阿弥陀となづけたてまつる (浄土 P.571)

とされて、摂取して捨てないから阿弥陀仏と名づけると讃詠されておられる。阿弥陀仏とは摂取不捨であるから阿弥陀仏という名義なのである。
このご和讃は、善導大師が『阿弥陀経』の、

かの仏の光明無量にして、十方の国を照らすに障碍するところなし。このゆゑに号して阿弥陀とす。(小経 P.123)

の文と『観経』の

一一光明 遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨。
一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず。(観経 P.102)

の文を『往生礼讃』で、

問ひていはく、なんがゆゑぞ阿弥陀と号(なづ)けたてまつる。答へていはく、『弥陀経』および『観経』にのたまはく、「かの仏の光明は無量にして十方国を照らすに障礙するところなし」
ただ念仏の衆生を観(み)そなはして、摂取して捨てたまはざるがゆゑに阿弥陀と名づけたてまつる。(往生礼讃 P.662)

と、『阿弥陀経』と『観経』の意を合わせて引かれた文によっている。 なお高田派の国宝本同和讃の「摂取してすてざれば」の左訓には、

オサメトル ヒトタビトリテナガクステヌナリ セフハモノヽニグルヲオワエトルナリ セフハオサメトル
摂(おさ)めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追はへ取るなり。摂はをさめとる、取は迎へとる。→摂取してすてざれば

とされておられる。普通に宗教とは、汝と我の対応関係上に成立するのだが、本願力の回向によって浄土でさとりが完成する浄土真宗では、「ものの逃ぐるを追はへ取る」という全分他力の逆対応のご法義であった。

摂取してすてざれば
本願力の回向
回向
他力
正定聚
浄土真宗
念仏衆生摂取不捨

132,393,484,509,539,600,604,644,659,662,663,664,702,735,758,761,777,778,792,797,798,831,846,848,859,860,864,875,924,935,936,964,970,976,1022,1088,1094,1115,1129,1144,1193,1199,1297,1404,1410