浄土教
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じょうどきょう
阿弥陀仏の浄土に往生し、 さとりを開く教えのこと。 浄土には阿閦仏(あしゅく-ぶつ)、 薬師仏、 弥勒等の浄土があるが、 中国・日本では一般的に阿弥陀仏の浄土を指す。 →浄土門。 (浄土真宗辞典)
- 新纂浄土宗大辞典から転送
◆ 参照読み込み (transclusion) JDS:浄土教
目次
じょうどきょう/浄土教
一
総論==[定義]== まずは浄土(すなわち仏国土)に往生し、その浄土で修行して成仏・悟りを目指す教え・信仰のこと。「浄土門」ともいう。いかなる浄土であろうと、浄土への往生を目指すなら浄土教といえる。例えば阿閦仏の妙喜世界への往生を目指す教えも浄土教である。また、弥勒菩薩の兜率天への往生も、広い意味では浄土教に含められる。ただし、一般に浄土教という場合、「浄土三部経」等に説かれるところの、阿弥陀仏の極楽浄土への往生を目指す教え・信仰を指すことが大半である。これは諸々の仏・浄土の中で、阿弥陀仏・極楽浄土が群を抜いて広く信仰を集めたからといえよう。以下では、この弥陀浄土(すなわち極楽)への往生を目指す教えに限って述べる。
[教理]
浄土教の教えは二段階で悟りを目指す点に特色がある。浄土教以外の教え(聖道門)が、この迷いの世界で直接悟りを目指すのに対し、浄土教(浄土門)は、この迷いの世界ではまず極楽への往生を目指し、極楽に往生したのち、そこで修行を積んで成仏・悟りを目指す。よって、阿弥陀仏信仰が説かれていても、極楽への往生が目指されていなければ、それは厳密な意味では浄土教とはならない。
往生には二つの条件がある。一つは行。往生するために必要な「往生行」のことである。弥陀浄土教の根本聖典である『無量寿経』では、往生行は四十八願の第十八・十九・二十願、および下巻の冒頭とそれに続く三輩段に説かれると見なすのが一般的である。これらの箇所では様々な行が説かれているが、中でも重要なのが念仏(サンスクリット本ではⓈanu-√smṛ随念、Ⓢmanasi-√kṛ作意に相当)と聞名であるといえよう。特にその後の浄土教の歴史において、念仏は往生行の中心としてより明確に意識されるようになってゆく傾向を有し、また念仏自体も観想念仏から称名念仏へと重心が推移してゆく傾向がみられる。そしてこれらの傾向の到達点が法然である。法然は第十八願のみに往生行が説かれているとして、そこに説かれる往生行は念仏のみ、しかもそれは称名念仏に限るとした。また、法然は聖道門の行が難行であるのに対し、浄土門の行は易行であると位置づけ、その後の日本浄土教における基準となってゆく。もう一つの条件は信である。『無量寿経』の第十八願では「至心に信楽して、我が国に生ぜんと欲して、乃至十念」(聖典一・二二七/浄全一・七)とあり、「信楽」を信と見なすことができるとすれば、既に第十八願において行と並び信が往生の条件として説かれていることになる(なお、サンスクリット本で信はⓈprasanna-citta清澄な心やⓈprasāda浄信に相当すると考えられる)。また後半の「我が国に生ぜんと欲」する心も後世、願生心として広い意味での信に分類され、その意味では浄土教において信は最初期の段階から往生の必要条件であった。ただし、信は行と並列的に重視されたかというと、基本的に法然以前は信より行が重視されていたといえる。例えば、源信『往生要集』なども、行を中心に全体が構成されていて、信が行と対等、もしくはそれ以上に重視されるようになるのは、やはり法然をもってその嚆矢とする。この行と信という二つの条件が揃えば、阿弥陀仏は自身の本願力(誓願力)すなわち他力を行者に回向し、行者はその本願力に乗じて極楽に往生することになる(なお、他力の考え方が明確に説き示されるようになるのは、中国の曇鸞以降といえる)。
ところで、往生そのものは基本的には死の瞬間になされる。その際、『無量寿経』の第十九願に説かれるごとく、行者は阿弥陀仏や聖衆の来迎を受け、阿弥陀仏に引接されて極楽に向かう。極楽までの所要時間は、「浄土三部経」のいずれにおいても瞬時とされる。また、生まれる際は極楽の蓮池にある蓮のつぼみの中に化生する。その蓮が開いて後は、極楽で修行を行う。極楽の諸要素は修行に最適の環境となっており、自然と修行が増進する。さらに極楽に往生すれば皆、不退転の菩薩となる故に、修行が退転することもない。しかも、第十一住正定聚願と第二十二必至補処願において、阿弥陀仏は極楽に往生した者を悟りに至らしめると誓っているので、往生すれば必ず成仏することができることになる。なお、極楽往生後の修行についてはあまり述べられることはないが、『無量寿経』では「菩薩の諸波羅蜜」や「諸もろの三昧門」(聖典一・二六〇/浄全一・二四)が、また『観経』では九品段で聞法・三昧といった行が説かれる。法然も往生後の行として、『要義問答』で「安楽浄土に往生せさせおわしまして、弥陀観音を師として『法華』の真如実相平等の妙理、『般若』の第一義空、真言の即身成仏、一切の聖教、心のままに解らせおわしますべし」(聖典四・三九五/昭法全六三二)と説いている。
[浄土教の起源]
浄土教は他方仏・浄土・誓願といった大乗仏教的要素を前提としており、まさに大乗仏教の教えの一つといえる。大乗仏教としては最古の教えの一つで、紀元前後にその原型が現れ、紀元一、二世紀頃に『無量寿経』『阿弥陀経』の原初形態が成立したものと推測されている(ただし『観経』は四、五世紀の成立で、成立地についても中央アジアをはじめ、諸説がある)。阿弥陀仏・極楽に言及する経典の漢訳者の出身地や燃灯仏信仰との関係などからして、浄土教は西北インドで成立したと推測されている。阿弥陀仏や極楽に言及する経典は『般舟三昧経』をはじめとして二九〇以上現存するが、阿弥陀仏・極楽、そしてそこへの往生を主題とする経典はいわゆる「浄土三部経」に限るということができる。一方、論書としては、まず龍樹作と伝える『十住毘婆沙論』が、阿弥陀仏等に対する「称名(念仏)」を初めて明確に説き示した点(正蔵二六・四二下)、後世の浄土教の人師に注目される難行道・易行道(正蔵二六・四一中)を説く点で重要である。また、無著『摂大乗論』の十八円浄説なども極楽浄土との類似性が指摘されているが、何といっても世親(天親)作と伝える『往生論』は、現存するインド典籍で唯一、弥陀浄土のみについて説く論書である点、五念門という体系的な往生行を説いた点でも重要といえる。したがって浄土宗では「浄土三部経」に本書を加えて「三経一論」とし、所依の論書に位置づけている。
【参考】藤田宏達『原始浄土思想の研究』(岩波書店、一九七〇)、香川孝雄『浄土教の成立史的研究』(山喜房仏書林、一九九三)、『講座大乗仏教五 浄土思想』(春秋社、一九八五)
【参照項目】➡阿弥陀仏、浄土、極楽、信、念仏、往生、本願力、自力・他力、十住毘婆沙論、往生論
【執筆者:安達俊英】
二
[中国]
仏教が中国に伝来し、その聖典が漢訳されると、すぐさま阿弥陀仏とその浄土や往生を説く経典も漢訳されるようになった。八世紀中国天台宗の湛然が『止観輔行伝弘決』に「諸教の讃ずるところ、多く弥陀にあり」(正蔵四六・一八二下)と述べているように、インド以来、浄土教の教義と信仰が他を圧倒していたことがわかる。それらの中でも特に重要なものとして、善導は六部往生経を、法然は正依の経論と傍依の経論を挙げ、また『長西録』には五〇〇部を超える浄土教の典籍が列挙されている。中国における独自の浄土教信仰は、はやく東晋の廬山慧遠にはじまる。慧遠は有志とともに結社を組織して念仏に励んだといわれている。つづく南北朝になると、阿弥陀仏の像が多く造られるとともに、万善万行の実践とその回向による救済を願うようになった。ただし現世利益への希求や弥勒信仰との融合が顕著で、後世の純粋な阿弥陀仏信仰とは異なる。これが南北朝末期になると、ようやく阿弥陀仏の造像・西方浄土への願生・往生行としての念仏の三者が揃ってくる。それは『観経』の流布と無関係ではない。つまり『観経』に説かれる因(実践行)と果(往生)の関係が浸透してきた結果である。つづく隋唐でも『観経』の影響は大きく、経典の注解だけではなく、儀礼を通した礼拝、讃歎、懺悔、念仏の実践が民衆に広まり、天台宗、禅宗、三階教の教理を取り入れた浄土教信仰は新たな局面へと進展していった。それを牽引したのは道綽や善導、また法照や飛錫であった。また、この時代の各種往生伝類に、経典に説かれている実践体系の拘束を受けない信仰が土着的習俗とともに描写されていることは注目できる。隋唐までの浄土教は師資相承や教団組織が厳格ではなく、単なる信仰グループにとどまっていた。しかし長い間諸宗に附属する信仰グループであったということが、結果的には浄土教の教理を深化させることになった(たとえば華厳浄土・天台浄土・真言浄土・禅浄・律浄などの台頭)。これら浄土教解釈の相違をめぐる議論と実践の過程で浄土教はしだいに醸成されていったのであり、実はこのことが浄土教の衰退を抑止したともいえる。宋代になり、宗暁の『楽邦文類』や志磐の『仏祖統紀』において、それぞれ浄土六祖と浄土七祖の相承説が立てられ、また東晋の慧遠を慕う士大夫や知識人らが新しい念仏結社を組織して盛んに活動を展開することにより、浄土教を独立した宗派として立ち上げようとする機運が高まっていく。ついで一六世紀明代の雲棲袾宏が浄土八祖に選定されると、浄土教は中国仏教における地位を獲得するにいたる。近代以後の中国浄土教の基礎は、この袾宏によって確立された。その著作は弟子によって『雲棲法彙』三四巻としてまとめられた。満州族が支配した清朝の仏教は居士仏教といわれるように、在家知識人による仏教研究と実践が盛んであり、清末になると出家教団の権威は失墜していく。居士では彭際清が『観無量寿仏経約論』一巻や『浄土聖賢録』九巻を著して浄土教の宣揚につとめ、楊文会も中国で散逸した浄土教聖典を日本から譲り受けて金陵刻経処において発刊した。出家者では印光が各種慈善事業や仏教書を印行するとともに、念仏を広めた功績により蓮宗第一三祖となる。その少し後に出た太虚は人間仏教、念仏禅を唱導した傑僧として著名である。
現代中国においても念仏信仰は広く社会に浸透しているが、全国の浄土教寺院を統括するような組織というものはなく、真俗一貫の信仰として口称念仏や『阿弥陀経』が読誦され、地域を問わず親しまれている。特に旧暦の一一月一一日から一七日までは、大陸も台湾も阿弥陀仏の誕生日を祝う打仏七(打七・打念仏七)を盛大に行っている寺院が多数ある。
【参考】望月信亨『支那浄土教理史』(法蔵館、一九四二)、小笠原宣秀『中国近世浄土教史の研究』(百華苑、一九六三)、道端良秀『中国浄土教史の研究』(法蔵館、一九八〇)、野上俊静『中国浄土教史論』(同、一九八一)、陳揚炯著・大河内康憲訳『中国浄土宗通史』(東方書店、二〇〇六)
【執筆者:齊藤隆信】
三
[日本]
日本においては、飛鳥時代の七世紀初めに阿弥陀仏信仰が伝来していたようで、既に恵隠が七世紀中頃に『無量寿経』の講義を行っている。ただし、釈迦・弥勒・薬師信仰などに比べるとその信仰は微々たるものであったと考えられるが、次第に広まりをみせてゆき、阿弥陀仏像・阿弥陀浄土変相図が伝来・作成され、さらには奈良時代になると阿弥陀堂が造立された記録が残されている。経典としては『称讃浄土経』『阿弥陀経』が普及し、論書では道綽・善導系と新羅系が多く伝来した。浄土教の論書を著した学僧としては、三論宗の智光、華厳宗の智景(憬)、法相宗の善珠が知られるが、そこには新羅浄土教の影響が強く見られる。また、この時代では当麻曼陀羅や智光曼陀羅といった現存する浄土変相図の伝来・作成も見逃せない。ただし、少なくとも奈良時代までは、往生は説かれても、それは追善が目的であり、またその信仰も庶民まで浸透していたかは不明である。
平安時代になると、天台宗三祖円仁が、唐より持ち帰った法照の五会念仏を常行三昧として修し、それが不断念仏(特に比叡山のそれを「山の念仏」と呼ぶ)となって、天台浄土教の礎が築かれることになる。そして九世紀後半から一〇世紀には、増命・実性などの西方願生者が現れ、良源・千観・禅瑜・静照・覚運などが浄土教の論書を著すに至る。その一方で一〇世紀には阿弥陀聖と呼ばれる空也が出て、庶民に念仏を広めたと伝える。その中で、日本に浄土教信仰を定着させるに最も功績があったのは、やはり源信といえよう。その著『往生要集』が日本浄土教に与えた影響は、同時代・後世を問わず、非常に大きい。例えば念仏結社の二十五三昧会の成立もその一つであり、さらには平安後期から鎌倉期に掛けて盛んに作成された「往生伝」も、源信に影響された慶滋保胤が『日本往生極楽記』を著したのに始まる。この『往生要集』を契機として、貴族・僧侶を中心に、個人信仰として自身の往生を願う浄土教信仰が格段に広まってゆくこととなる。さらに天台浄土教の広まりを受けて、三論宗では光明山寺を中心に永観・珍海・覚樹・重誉などが、また真言系でも覚鑁・実範・仏厳などが浄土教を宣揚した。なお、平安時代は貴族等への浄土教の広まりとあいまって、阿弥陀仏像や来迎図・浄土変相図、さらには阿弥陀堂・浄土庭園など、浄土教文化が最も花開いた時代といえる。迎講(来迎会)が始まったのもこの時代とされる。この浄土教の広まりと並行して、遁世僧、すなわち聖が数的にも質的にもその活動を活発化させてゆく。この聖のうちの相当数は念仏者と推定され、しかも聖は別所に住するか、諸国を遊行したので、民衆と接する機会も多く、民衆に浄土教信仰を広めるのに大きな役割を果たしたようである。
このような中、平安末から鎌倉初期にかけて法然が出て浄土宗をたて、ここに浄土教信仰が仏教史上初めて、一宗として独立した。しかもその教えは「専修念仏」という、それまでの浄土教とは一線を画する革新的な教えであった。現在、日本に弘まっている浄土教のうち、良忍を祖とする融通念仏宗を除けば、浄土宗・浄土真宗・西山浄土宗・時宗など、すべてが法然の流れを汲むものである。室町時代になると、浄土教も再び神祇信仰や本覚思想と関係を持つようになり、また儒教思