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授記

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じゅき

 仏が修行者に対して、未来に最高のさとりを得るであろうことを予言、約束すること。

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

成仏の授記 →普授

じゅき 授記

 梵語ヴィヤーカラナ(vyākaraṇa)の音訳。和迦羅那(わからな)・婆迦羅那(ばからな)などと音訳する。また古訳では記別・授決などと意訳する。仏が修行者に対して、未来に最高のさとりを得るであろうことを予言、約束すること。 『大経』には

菩薩に記を授け、等正覚を成らしむ。(大経 P.5)

『観経』には、

諸仏は現前に授記したまふ。(観経 P.103)

と説かれている。(浄土真宗辞典)

「行巻」の『平等覚経』の引文に、

阿闍世王太子および五百の長者子、無量清浄仏の二十四願を聞きて、みな大きに歓喜し踊躍して、心中にともに願じていはまく、〈われらまた作仏せんとき、みな無量清浄仏のごとくならしめん〉と。
仏すなはちこれを知ろしめして、もろもろの比丘僧に告げたまはく、〈この阿闍世王太子および五百の長者子、のち無央数劫を却りて、みなまさに作仏して無量清浄仏のごとくなるべし〉と。 (行巻 P.144)

とあり「信巻」では、用欽の『阿弥陀経疏超玄記』の文を引かれ、

律宗の用欽師のいはく、「至れること、華厳の極唱、法華の妙談にしかんや。かつはいまだ普授あることを見ず。衆生一生にみな阿耨多羅三藐三菩提の記を得ることは、まことにいふところの不可思議功徳の利なり」と。(信巻 P.264)

と、すべての衆生がこの世の命を終えて後に、みなこの上ないさとりを得ることを約束(普授)されるのは、まことに阿弥陀仏の不可思議な功徳による利益であるとされ、

念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。(信巻 P.264)

と「真仏弟子釈」を決釈しておられた。

オンライン版 仏教辞典より転送

授記

vyākaraṇa व्याकरण (S)  原語は、「和伽羅那(わからな)」「婆伽羅那(ばからな)」「弊迦蘭陀(へいからんだ)」などと音写される。

十二部経の一つ

十二部経で「記別(きべつ)」「記説」「記」「説」などと訳され、問答体の典籍を意味している。

仏となる確約

「授記」「受記」「受授」「授決」などと訳される。授記とは、仏が修行者に対して将来必ずとなることを予言し保証を与えることをいう。
釈迦は過去世に燃灯仏から現世における成仏を授記されたといわれる。
スリランカでは仏殿の内陣背後の回廊部に過去二十四仏とその授記を受ける男女や動物の姿をリアルに描いている。

大乗仏教では「授記作仏」(じゅきさぶつ)という考えが根底にある。無量寿経では法蔵菩薩が師の世自在王仏から阿弥陀仏となると授記をうける。法華経には舎利弗声聞の授記、提婆達多や女人に対する授記を説いている。

受記の必要性

 大乗仏教では、見仏受記が成仏の必要条件とされている。ことに、発願して、それを仏に認められた上で修行をし、仏から記別を受けなくては仏となることはできないと考えられている。そこで、仏に見えるために仏国土往生し、発願の後、記別を受ける必要がある。
 これは、釈迦がこの世から亡くなったために、成仏するものがいなくなったとする考えから発生し、直接に仏から指導を受けない限り仏とはなり得ないという考えに基づく。このために、仏国土への往生が必要とされるのである。