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廃悪修善

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はいあくしゅぜん

 悪を廃して善を修すること。(化巻 P.393)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

御開山は「化巻」で、息慮凝心廃悪修善を自釈され、

しかるに常没の凡愚定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。ここをもつて立相住心なほ成じがたきがゆゑに、

「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」(定善義 四二七

といへり。いかにいはんや無相離念まことに獲がたし。(化巻 P.393)

とされ、息慮凝心定善)や廃悪修善(散善)の実践の困難なことの立証に「定善義」を引かれておられた。
この、息慮凝心と廃悪修善は釈尊の「要門」の教えであり、それに対して一切善悪の凡夫が往生する弘願門を顕されたのが阿弥陀如来であった。これを善導大師の「玄義分」で以下のように示しておられた。

しかも娑婆の化主(釈尊)はその請によるがゆゑにすなはち広く浄土の要門を開き、安楽の能人(阿弥陀仏)は別意弘願を顕彰したまふ。

要 門

その要門とはすなはちこの『観経』の定散二門これなり。「定」はすなはち(おもんぱか)りを()めてもつて心を凝らす(定即 息慮以凝心)。「散」はすなはち悪を廃してもつて善を修す(散即 廃悪以修善)。この二行を回して往生を求願す。

弘 願

弘願といふは『大経』(上・意)に説きたまふがごとし。 「一切善悪の凡夫生ずることを得るものは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁となさざるはなし」と。(玄義分 p.300)

これを釈尊と弥陀の二尊二教といふ。
御開山はこの善導大師の文を享けられて、

「しかるに常没の凡愚定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに」(化巻 P.393)

とされたのであった。
なお、法然聖人は、

廃悪修善は、諸仏の通戒なり[1]。しかれども、当世のわれらは、みなそれにはそむきたる身ともなれば、ただひとへに別意弘願のむねをふかく信じて、名号をとなへさせ給はんにすぎ候まじ。有智・無智、持戒・破戒をきらはず、阿弥陀ほとけは来迎し給事にて候なり。御(こころ)え候へ。(『和語灯録』 一百四十五箇条問答)

と、されておられた。

二尊教
真仮論の救済論的意義

参照WEB版浄土宗大辞典の「七仏通戒偈」の項目
参照WEB版浄土宗大辞典の「二尊二教」の項目
参照WEB版浄土宗大辞典の「止悪修善」の項目

参照WEB版浄土宗大辞典の「七仏通戒偈」の項目


  1. 諸仏の通戒。諸悪莫作(しょあくまくさ) 衆善奉行(しゅぜんぶぎょう) 自浄其意(じじょうごい) 是諸仏教(ぜしょぶっきょう)(もろもろの悪をなすなかれ、おおくの善を奉行せよ、自らその意(心)を浄めよ、これが諸仏の教えである)の七仏通戒偈のこと。
    白居易が鳥窠道林(ちょうかどうりん)に仏教の大意を質問すると、師は「諸悪莫作衆善奉行」と答えた。さらに白居易が、「そんなことは三歳の子どもでも知っている」と言うと、師は「三歳の子どもでも知っていることが、八〇歳の老人でも行うことはできない」と答え、これを聞いて白居易は師に礼をなしたという。(新纂浄土宗大辞典より)