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字訓釈

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じくんしゃく

 文字の解釈法の一。元の文字の普通の意味の読み方と意味の他に、音や意味の同じ漢字をあてて特定の字について様々な語意を解釈する方法。日本天台宗、特に慧心流で盛んに用いられたという。転声釈ともいう。

例:(三心字訓釈)

信楽といふは、信とはすなはちこれ真なり、実なり、誠なり、満なり、極なり、成なり、用なり、重なり、審なり、験なり、宣なり、忠なり。
楽とはすなはちこれ欲なり、願なり、愛なり、悦なり、歓なり、喜なり、賀なり、慶なり。

これでは、意味が不明なので梯實圓和上著の、聖典セミナー『信の巻』(*)より字訓釈の一端について以下を引用。

まず「信」を真、実、誠といわれたのは、『説文解字』には「信は誠なり」(*)といわれているように、嘘・偽りのない「まこと」の意味を持つ「誠」が信の本訓としてあります。その誠には、至心釈で挙げたように、誠実、真実の意味がありますから、信には真と実が誠の転訓として出てくるわけです。しかし、至心と会合するために、順序をかえて真、実、誠と出されたのでしょう。

次の「満なり」といわれたのは、実から出た転訓です。『広韻』五に、実の字の訓に「満なり」といわれています。実というのは、実が一杯に詰まっていて空虚でないことを表しているからです。

「極なり」とは、『広韻』四から採られた訓であろうといわれています。香月院深励師は、『教行信証講義』六(『仏教大系』五一・二四頁)に、信楽の信の字訓は『広韻』と『礼部韻略』(『広韻』の略本)を多く用いられており、楽の字訓は『玉篇』が多く用いられているといっています。そして『広韻』四に、信を「忠信なり」といい、その忠信の註に、「また験なり、極なり、用なり、重なり、誠なり」という五訓が出されていることに注目しています。「極」は、その第二に挙げられています。この上ない究極の状況を表しているわけです。「成」は五訓のなかにもありませんが、誠の同音訓として挙げられたものでしょう。誠と成とは、もともと違った意味の言葉ですが、音が共通していることから、共通の意味を表す言葉として用いることがしばしばあります。それを音通とも、同音訓ともいうわけです。誠と成の同音訓の例としては、『楽邦文類』三(『大正蔵』四七、一八五頁)に「誠とは成なり」といわれたものがあります。この場合は、成は誠の転訓になります。ともあれ親鸞聖人は、先の極と合わせて極成という熟字を造るために、あえて信の訓として成を挙げられたものでしょう。

「用なり」は、『広韻』の忠信の五訓にありますが、また「信用」というように「信じて用いる」「信じて受け容れる」という意味があります。「重なり」というのも『広韻』の五訓のなかにあります。敬い重んじるという意味です。次の「審なり」は、信の直接の訓としてはありませんが、『広韻』二や『玉篇』には誠の字に「審なり」という訓がありますから、誠の転訓として挙げられたものでしょう。物事をはっきりと明らかに決定することです。

次の「験なり」は、『広韻』の五訓のなかにあります。明らかな証拠にしたがって考えてみることです。先の審と合わせて、審験といった場合には、「間違いないとはっきりと明らめ知ること」をいいます。.

次の「宣なり」は、どこから採られたのかわかりません。深励師は「信を真淳の韻とするときは、宣と同音になるから、同音訓として宣を挙げられた」といっています。『広韻』二に「宣とは布なり、明なり」といわれるように、「教えを宣布すること」を表しているといい、興隆師の『教行信証徴決』巻一0(『仏教大系』五一・四六頁)も同様に述べ、「明らかに仏智を信じること」といっています。「忠なり」とは、すでに述べたように、『広韻』四に信を「忠信なり」と釈したものによっています。その忠の註には「無私なり、直なり」といわれているように、まったく私心をまじえずに、素直に仕えることで、いまは、はからいなく仏にしたがう心を表しています。