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含花未出

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がんけみしゅつ

 蓮華の花につつまれて出られないこと。【左訓】「はなにふくまるるなり」(異本)(正像 P.612)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

善導大師の観経疏 定善義_(七祖)#P--412 の文、

四 明修因正念 不得雑疑
四には因を修すること正念にして、疑を雑ふることを得ざれといふことを明かす。
雖得往生 含華未出 或生辺界 或堕宮胎
往生を得といへども、華に含まれていまだ出でず。 あるいは辺界に生じ、あるいは宮胎に堕す。(*)

の「含華未出」、「或生辺界」、「或堕宮胎」の語によって、御開山は「以上二十三首、仏不思議の弥陀の御ちかひをうたがふつみとがをしらせんとあらはせなり。」(*)として「誡疑讃」(*)を作られた。

この善導大師の示される文は『無量寿経』智慧段p.76に説かれる、

【43】  そのときに慈氏菩薩(弥勒)、仏にまうしてまうさく、「世尊、なんの因、なんの縁ありてか、かの国の人民、胎生・化生なる」と。仏、慈氏に告げたまはく、「もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修してかの国に生れんと願はん。仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じ善本を修習して、その国に生れんと願ふ。このもろもろの衆生、かの宮殿に生れて寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の聖衆を見たてまつらず。このゆゑに、かの国土においてこれを胎生といふ。 (*)

に依るのである。
御開山はこの『無量寿経』の文を、胎化得失(胎生と化生の得と失)をあらわすために「化身土文類」p.378(*)で引文されておられる。如来よりたまわった選択本願の往生の行であり仏智の顕現である〈なんまんだぶ〉を称えながら、それを自らの修する善根(本)であると誤解するから、辺地や宮胎に堕してしまうのである。
御開山が「しかるになほ罪福を信じ善本を修習して、その国に生れんと願ふ」と『無量寿経』の文で示されたように、自らの為した因果応報の罪福だけを信じて、「貴賤緇素を簡ばず、男女・老少をいはず、造罪の多少を問はず、修行の久近を論ぜず」p.245(*)という因果を超越した不可思議の仏智(仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智)であり平等の救いである本願の教説を受容(信)しないから、浄土に往生しても「仏を見たてまつ」ることがないのである。仏を見たてまつることがないということは。真の還相の菩薩として衆生救済が出来ないことであり、これが、まるで自分を「蚕繭の自縛するがごときし」の蚕が繭で自らを覆うような「信罪福心(罪福を信ずる心)」なのであった。

ちなみに『無量寿経』の当面では、往生する為にもろもろの功徳を修しながらも、その修した功徳によっての浄土往生を疑う者を誡める意なのだが、御開山は本願力回向の〈なんまんだぶ〉が善本であり徳本であるから、〈なんまんだぶ〉という往生の行である選択本願を疑うことが仏智疑惑であるとされた。

なお、御開山は引文されておられないのだが、曇鸞大師撰述とされる『略論安楽浄土義』(*)には、仏智疑惑について述べられているので参照されたし。