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名の字…

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みょう の じ…

 『唯信鈔文意』700頁1行以下参照。 (正像 P.621)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

唯信鈔文意』700頁

「如来」と申すは無碍光如来なり。「尊号」と申すは南無阿弥陀仏なり。「尊」はたふとくすぐれたりとなり、「号」は仏に成りたまうてのちの御なを申す、名はいまだ仏に成りたまはぬときの御なを申すなり。この如来の尊号は、不可称不可説不可思議にましまして、一切衆生をして無上大般涅槃にいたらしめたまふ大慈大悲のちかひの御ななり。(唯文 P.700)

「自然法爾章」に、

「名」の字は、因位のときのなを名といふ。「号」の字は、果位のときのなを号といふ。(正像 P.621)

とあり、『唯信鈔文意』には

「号」は仏に成りたまうてのちの御なを申す、「名」はいまだ仏に成りたまはぬときの御なを申すなり。(唯文 P.700)

とあるように名号を、名と号を分けて考察されておられる。
「号」には、さけぶ(喚)、大声を出すといふ意味もある。この意から御開山は、号の字に衆生を招き喚び続けておられる「本願招喚の勅命」の義をみておられたのであろう。 これは後述する『華厳経探玄記』に「体を召するを名と為し、徳を標するを号と為す」とあり、名は「呼召」[1]の義で、物自体を呼びあらわす名称であり、号とは物自体にそなわった徳を標しあらわす義である(聖典セミナー 『唯信鈔文意』)、などの意に拠られたのであろう。
 『無量寿経』には、法蔵菩薩修行の因位の段では名の字が用いられるが、果位の阿弥陀仏と成り、衆生済度の名号〔なんまんだぶ〕の功徳が成就してからは名号の字がもちいられている。本願が成就して、阿弥陀仏となられた果位においては名号となっているところから、御開山は名と号を分けて考察されたのであろう。
その因位果位の違いを、

「名」の字は、因位のときのなを名といふ。「号」の字は、果位のときのなを号といふ。

や、

「号」は仏に成りたまうてのちの御なを申す、「名」はいまだ仏に成りたまはぬときの御なを申すなり。

と、されたのであった。

釈尊が阿弥陀仏の本願が完成したことを告げる「本願成就文」には「その名号を聞きて、信心歓喜せん」とある。

あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と正法を誹謗するものとをば除く。(大経 P.41)
「隠/顕」
意訳
すべての人々は、その仏の名号のいわれを聞いて信じ喜ぶ心がおこるとき、それは無量寿仏がまことの心をもってお与えになったものであるから、無量寿仏の国に生れたいと願うたちどころに往生する身に定まり、不退転の位に至るのである。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれる。

そして『無量寿経』の肝要を後世に流布・伝持する流通分には、

仏、弥勒に語りたまはく、「それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなりと。(大経 P.81)
「隠/顕」
意訳
釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。
「 無量寿仏の名を聞いて喜びに満ちあふれ、わずか一回でも念仏すれば、この人は大きな利益を得ると知るがよい。すなわちこの上ない功徳を身にそなえるのである。」

と無上功徳の真実の利である名号を付属されている。

名号
『華厳経探玄記』

於中 名謂釈迦等別名。号謂十号諸仏通名。

中において、名は謂はく、釈迦等の別名、号は謂はく、十号、諸仏の通名なり。

又召体為名。標徳為号。

また、体を召するを名と為し、徳を標するを号と為す。

又亦名号無別。如文内説。

また、名と号と別無し、文の内に説くが如し。(『華厳経探玄記』巻第四)
  • なりたち出典『角川新字源 改訂新版』(KADOKAWA)

[名]

会意。口と、夕(ゆうぐれ)とから成り、夕方の暗やみで、人に自分の名をなのることにより、「な」の意を表す。

[号]

号は、会意で、口と、丂(こう)(口から息の出るさま)とから成り、いたみ悲しむ声の意を表す。號は、会意形声で、号(カウ)に、さらに意符虎(こ)(とら)を加えて、とらのように大声でさけぶ意を表す。のち、號と号とが混用され、かえって号が號の略字と考えられている。教育用漢字はこれによる。

脚注:

  1. まねきよぶこと。呼び寄せること。→招喚