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他力の信の特色

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浄土真宗に於ける信心とは「如来よりたまはりたる信心」(歎異抄#P--852) とあるように(たまわ)りたる仏心であるような信心であるから私のものではない。故に越前の門徒は信心を尊敬の意で「ご信心」とっ呼称していた。信心はわたくしの上にあるけれども私のものでは無いからである。信心正因といふ自らが起こす信心といふドグマ論に陥った人には判らないのだろうが、稲城選恵和上はそれを「信順性(しんじゅんせい)」「逆対応性(ぎゃくたいおうせい)」「無所得性(むしょとくせい)」といふワードで示して下さった。
本文は、稲城選恵 深川倫雄共著の『如来をきく』より抜粋なのだが、背表紙に「如来にく」とあったのを「如来きく」と校正して紙を貼ってある。出版社としては大損なのだが日本語の助詞の「に」と「を」の使い方はややこしい。[1]


他力の信の特色

もう始めましょうか。 浄土真宗と言う事は、一口で言うたら、この他力の信心という事、これで全部通ずるんです。これでもう全部おさまる。 その他力の信心という事で全部通ずるという事はね、蓮如さんがおっしゃっとるんですね『御一代聞書』に御座いますね、「浄土真宗は、他力の信心、他力の信心と言いさえすれば間違っておらない。」と、こう言う事を言われてますね[注7]。

この通りです。ところが、一般に言われている信心は、他力の信心じゃないんです、こっちが信心するんですから。 キリスト教でもそうですね、やっぱりこっちが信ずるんですから。ですから、一般に言う信心は皆思い込む信心、確信する信心を言うんです。ところが、浄土真宗の信心は、思い込むと言う様な信心とは全然違うんです。

そうするとどうかと言うと、他力の信心についてはね、三つの性格が考えられるんですね。この三つの性格は、世界中のどの宗教にも通じませんし、一般の仏教にも通じません。親鸞聖人だけなんです。ですから、これを明らかにせんと、他力の信心が解らんようになります。ところが、これが明らかになるとね、世界中どこへ行っても、浄土真宗ということが通ずるんです。

イ 信順性 「そのまま」ということ

その真宗しか言えない特色、他力の信心の性格の第一番目はね、漢字でいきますとね、「信順性」という事です。「性」はつけんでもええけど、信順でもいいんじゃけど。 とにかく信順という事は、「そのまま」という事です。ところが、「そのまま」いうても、「そのままじゃから何にもせんでもええ」という事になったら、これは横着という事です。横着とそのままは違うんですからね。

「そのまま」をね、一生聞かせてもらうんですけど、大体は、その「そのまま」がそのままにならんのですからね。「そのまま」が「わがまま」になると、これはどうにもならんね。そこで、「そのまま」いうたらね、どう「そのまま」かいうたら、「与えられたそのまま」ということです。 与えられたそのままで、こっちが手出しをせんのです。それで、さっきいうたね、越後の良寛さんの歌では「他力とは野中にたてる竹なれやよりさわらぬをば他力とぞいう」[2]という。こっちから手出しせんという、こっちから手を加えたらあかんという意味ですね。

ところが、信ずるいうたら大体皆わしの方から信ずると思うんですね。ですから、西洋の言葉ではね、世界中というてもええんですが、信ずるというたら神様を信ずる場合には、たった一つしか無いんです。これ、英語でもフランス語でもドイツ語でもラテン語でも、辞書引くと全部一つしか無い。たとえば、英語では「faith」(フェイス)というね、ギリシャ語ではこれ「hides」(ヒデス)と言いますね。

ところが、これ辞書引きますとね、どれも確信すると言う意味なんです。確信するというたら、絶対に間違いないと思い込むと言う意味ですからね。 大概それが信心じゃと思うてます。ですから信ぜられんと言うんですね。今の作家や評論家あたりのちょっと知識人でね、親鸞聖人に関心のある方がちょいちょいおりますね。
ところが、これが解らんから皆、親鸞聖人が解らんのです。親鸞聖人の場合はね、信という意味が違うんですから。何故かというたら、疑うという意味がまず一般とはちがうんです。

疑うというたら、大概まぁ何ですね、「あいつの言う事はほんまじゃろうか、嘘じゃろうか。」と、こういう場合に疑うと言いますね。 「明日は天気じゃろうか雨じゃろうか」と、こういう場合にも疑うと言うね。仏教では、これを猶予不定(ゆうよふじょう)[3]と言います。疑うというのは、大体そういう場合に使うんですね。ですから、親鸞聖人の「」にも、そういう解釈の場合があるんです。「若存若亡」というのが、三不三信に出ますからね、そういう解釈もあります。ところが、親鸞聖人はね、信心のことを「無疑」[4]と言われていますからね。「無疑」というたら、ちょっと似た言葉に「不疑」[5]というのがあるんです。これは違うんです。

一般には、混同していますね。「不疑」いうたら、「明日は天気じゃと疑っておりません。」と言う場合ですね。明日の天気の場合じゃったら、疑っておりませんと言うね。ところが、今は雨降っとるかいね、降っとるね。この場合に、「今日雨が降っとると疑っておりません。」と言うかね。そう言う方は、手を挙げて項きましょうかい。

そういう方は、いませんね。今日は曇っとる、今日は雨が降っとるということをね、疑っておりませんという事は無いでしょうが。ですから、「不疑」と「無疑」とは、違いますね。案外、ここの所のけじめがね、はっきりされとらんのです。

そうすると、疑っておりませんと言うことは、「疑い」の形の変ったものと言えますね。やっぱり、この場合は、「今・ここ」の話じゃ無いんです。ところが、「無疑」という場合はね、「今・ここ」のことを言うんですね。わしは、「今・ここ」におるね。 そこで、この前に座っておいでの方と、こっちの九州からおいでの方とが、ひとつ言い争いをするんです。どうかというとね、一人の方は、「わしがここに居ると思うとる。」という、もう片方の方は、「わしがここに居らんと思うとる。」というてね。「おると思う」「おらんと思う」というて、言い争ってみなはれ、二人とも頭の方を見てもらわにゃならんね、病院行って。

これ、わしがここにおるということは、思うとか思わんとか論ずる必要が無いじゃろう。そういう場合に、「無疑」というんですね。ですから、疑っていませんという「不疑」とはちょっと意味が違うじゃろ。それが解らんのですからね。それですからね、「無疑」ということはね、「決定」という言葉が略されているんです。「無疑」は、「決定無疑」ということですね。

この決定ということは、どういう事か言うと、これはね、決定しておると言う事を仏教の言葉で成就と言うね。これは、決ってしもうたという咋日の話じゃない、昨日はもう済んだ後ですからね。そうかというて、これから決るという明日の話でもないんです。明日は、まだ来ておらんでしょうが。明日が決っておるというたら、どうかというと、例えばこういうんですね。

明日は御旧跡に参りますからね、出来れば行かれたらええんですよ。東京の方でも、灯台下暗しで、かえって知らん人がいますからね。減多にこういう時でもなけりゃや行けんもんですからね。親鸞聖人の御旧跡を、明日参りますね。

こういう場合はね、明日は決っておると言うんですね。ね、そういう時は、決っておる。じゃけど、明日の話です。明日はまだこれ、来ておらんでしょうが。それから、昨日じゃったら、決ってしもうたと言う。 ところが、成就というたら、明日の話でも昨日の話でもない。未来完了でも過去完了でもない。今の決定というたら、「今・ここ」にちゃんと決っておるものに面する場合でないと言えないんです。ですから、どうですか、遇うておる場合には、思うとか思わんとか論ずる必要がないでしょうが。

そうすると、南無阿弥陀仏というのはね、何時でも・何処でも・誰にでもということになるんです。 何時でもというたら、「今」という事なんですよ。今日四時から言うたら、まだ四時になっちょらんから駄目ですね。三時まで言うたら、もう駄目じゃないか。ところが、何時でもいうたら、「今」のことです。それで、何処でも言うたらね、ここまで、伊香保温泉まで来んにゃいうたらね、大阪におっても東京におっても駄目ですね。ところが、何処でも言うたら、「ここ」という事なんです。

そうすると、「今・ここ」ですね。それから、もう一つ言うたら、誰にでもと言う事。誰にでも言うたら、今お休みになっとる方でも心配いらん[6]。このことを、目を開けて聞いておかんにゃ。それでも、寝とる人でも心配いらん、これ、誰でもですから。しっかり聞かにゃというたら、寝とる人は駄目じゃないか。ところが、誰でもいうたら、寝とる人も皆入りましょうが。 そうするとね、誰でも言うたら、「今・ここ」の「このわし」にね、ちゃんと届いとるということです。これね、南無阿弥陀仏いうとね、聞いて届くんじゃないんです。届いておる法に遇うんじゃ。
救いの法が、聞くより先に、ちゃんと届けられとる。それがこの御姿(御本尊)の意味なんです。 それでね、親鸞聖人はね、こういう御絵像、これ御絵像と言います、それから御木像ですね、これは、あんまりお礼しとられんのです。そうかというて、高森親鸞会の様な極端な事いうても困りますけどね。親鸞聖人は、名号本尊をお礼しとられるんです。この事は、覚如さんや、あるいは存覚さんの『弁述名体抄」というのにちゃんとそう言われてます。その名号本尊にね、三種類あるんです。 「南無阿弥陀仏」(*) と、これは西本願寺に一つしかない、「南無不可思議光仏」と、これは高田の本山に一つある八字名号、残りの五つは「帰命尽十方無碍光如来」。これの七つは、全部国宝になっちょる。国宝いうたら、本物に間違いないものという意味なんですから、この七つは、みんな御開山の御書きになったもんです。

この「帰命尽十方無碍光如来」が、御脇掛けに掛かっておりましょうが。東京の方は皆こうなっとる、広島の方は駄目ですけどね。皆このお名号が、掛かっとるでしょ。広島から九州の方は、一般の家庭に掛かっとらんのですけど、新潟の方はどうかね、こうなっとるかね。在家のお仏壇は、御影像の方が多いか。じゃったら、新潟も駄目ですね。御脇掛けには、この「帰命尽十方無碍光如来」の御名号がええんです。これはね、他の宗旨には無いんです。他の宗旨ではね、大体は御祖師さんを両脇に掛けるんです。

例えば、浄土宗でいうたら、善導大師と法然上人になっていましょうが。ですから、天台宗や真言宗でも、祖師を掛けるんが本当なんですね。ところが、浄土真宗だけなんじゃ、御脇掛けに、こういう九字と十字の名号を掛けとるのはね。これがいいんですよ。御影像でも悪いことはありませんよ。お寺がね、御開山と蓮如さんになってますから、まぁ間違いありませんけどね。このお名号が一番いいんです。

この十字の名号がまた、御開山の御真筆で一番沢山残っとるんです。 あんた方も御存知じゃろう、笠原一男っていう方がおられるでしょう。東大の先生でね、この人は歴史の先生で、とにかく親鸞聖人や蓮如さんあたりに一番明るい学者ですからね。その、笠原さんが、二~三年前にうちの親類の寺へ見えましたらね、丁寧に仏さんに御礼したんです。それでね、後から笠原さんに会いまして聞きましたら、「今年の正月に家内が死にましてなぁ。」というんです。それでね、初めて仏壇を買うたということです。奥さんが亡くなって、初めて仏壇を買うたって。
それでね、御本山から十字のお名号をいただいて帰ったというんです。やっぱり、西本願寺の檀家ですからね。新潟の方ですよ。やっぱり笠原一男はえらい、歴史学者で親鸞聖人のことをよく知っていますからね。そう言う事を知っとるからね、十字のお名号をいただいて帰ったというんです。

それで、この十字のお名号(帰命尽十方無碍光如来)と言うのは、詳しく説明するとすばらしい意味があるんです。親鸞聖人はね、この「帰命尽十方無碍光如来」は、しょっちゅう使っておいでになるんです。御本尊もそうじゃけど、どの御書きになったものを見てもね、「無碍」という事の解釈をされておられるんです。

例えば、一番最後に御書きになったんがね、八十八歳の時で、『弥陀如来名号徳』というので、これが最後のものです。この『弥陀如来名号徳』にも、「帰命尽十方無碍光如来」の説明があるんです。この「帰命尽十方無碍光如来」はね、ひろげますと十二光ということになるんです。ですから、十二光の説明をして、しまいに帰命尽十方無碍光如来におさめてあるんです。御開山の『弥陀如来名号徳』は、そうなってます。十二光というのは御存知でしょうが。「正信偈」に、「普放無量無辺光、無碍無対光炎王」というてありますね。この十二光はね、御開山の一生涯で書かれたものに八遍出てきます。解釈がね、八遍あります。これは、解釈の数としては、一番多いんです。ですから、いかに親鸞聖人が十二光という事に関心を持たれていたかと言う事が分かるんですね。

それで、この十二光、これはどういうことか言いますとね、この無碍光と言うのは、十二光全部のはたらきを縮めたのが無碍光です。ですから、無碍というのが大事なんです。その次に、無対光と炎王光というのがありますね。これは、迷いの因と果をとって下さるということなんですね。

例えば、こう言う方がいますね。わしゃこの歳まで御縁に遇うてもね、あんた方の様に歳をとっておいでてもね、まだ信心がいただけておらんと言うんです。蓮如さんは、御信心をいただかにゃ無間地獄に落ちると書いてあるが、わしゃ駄目じゃと、自分に匙を投げる人がおりましょうが。

わしの様なのは駄目じゃとね。それから、こういう人もおりますね。聞いた時にゃ、なるほどそうじゃと思うんです。
ところが、聞いた時には、そうじゃと思うても、すぐ抜けてしまうんですね。もう、これが済んだら、皆さんが上の部屋に上がる前に抜けてしまいますからね。それで御飯食べりゃ、きれいさっぱり抜けてしまうから。

これどうかね、そうじゃ思うとる時にね、暴力団やとうて、ピストルで後から撃ち殺してもろうたら便利がよかろう思うけどね。そういうわけにはいかんですね。 そうするとね、今が臨終じゃいうてもね、私には、これで間違い無いというあてにするものが何にも無いね。そうすると、わしゃ駄目じゃということになりゃせんかね。有り難いなぁという、大丈夫という思いがあると、そうすると、助かる様に思うんです。ところが、その有り難い思いや、間違いないという思いが逃げてしもうたら、又これ元の木阿弥です。何にもならん、これ。

そうすると、わしの様な者は、駄目じゃと、こちらでこちらの助かる心配をするね。この心配するのは、目を開けてしっかり聞く人がするんです。 寝とる人は、せんのじゃから。わしゃ、寝とる人は善良なと思うんです。目をあけとる人が、たちが悪いんですから。それがね、しっかり聞いて、今の駄目が駄目にならん様にと、こちらからかかりましょうが。ところが、その駄目じゃという心配が、要らん事になっとるいう事が、南無阿弥陀仏という事なんです。

あれ、十二光の一つひとつが南無阿弥陀仏いう事ですからね。無量光から以下、皆、南無阿弥陀仏いう事なんです。一つひとつ押えるとそういう事なんですよ。ですから、いまの駄目がね、よう聞かせてもろうて、間違いなくなって助かるんじゃないんですね。

ところが、皆そう思いましょうが。浅原才一の様になったら助かる様に思うたら、そうなると、才一が一番仏法を聞く邪魔者になりますからね、真似はせいでもええんですよ。才一は才一、関係無いんですから。ですから、妙好人の様にと思うたら、必ず妙好人がモデルになるから邪魔しますね。 わしはわしで、別じゃ。ですから、ああいう様になれんから駄目じゃという駄目じゃという心配は、こっちの受け持ちじゃない。これは御本願の、受け持ちなんじゃ。

それからね、その次の、清浄・歓喜・智慧光・不断・難思・無称光という六つはね、これは悟りの因と果になる。昔の学者は、ちゃんとこう言う事を解説してます。 これはどういうことか言うたらね、わしが助かる研究と言う事なんです。どうしたら助かるかという。何でも皆こっちの受け持ちにするんですから、聞いて助かろうとね。まぁ、寝とる人は、こういう研究せんけど、目を開けとるんがたちが悪いんじゃ。

どうかというと、稲城さんの話しを聞いて大丈夫になろうとかかるんです。 こうなったら、この奴めに騙されとる、この狸の様なんにね。狸坊主と言いましょうが。騙す証拠なんです。これね、坊さんの言う事と相撲をとったら、仏法で無いんですよ。相撲とる相手が違うとるが、これ。みんなこの口車に乗せられとるんです。 こっちは、仲人の様なもんですからね。あの、結婚の時、仲人言うのがおりましょうが。仲人口いうてね、うまい事言うじゃろ。それで、すぐ引っ掛かるんじゃ。 仲人の奴めに引っ掛かったらあかんので。仲人と結婚するいうてね、聞いた事ありますかいね。いよいよになったらこれが邪魔になるでしょうが。

出光という石油会社の会長がおりましょうが。あの方は、大した人ですね。鈴木大拙さんは、あの人が育てたんですから。あの人が、経済的バックじゃったんですね。これは、大した人です。その出光さんがファンの人に、仙涯和尚と言う方がおったんです。博多の仙涯和尚というてね。

その仙涯和尚のところへね、島根県の石見大田という所の住職でね、後生の一大事が苦になって寝られん人がおったんです。 二~三年前に、わしゃ、その人のひ孫に会うたことがある。そこの住職講座に行ったら、それは、わしの爺さんじゃと言うてました。この方はね、本当に後生の一大事が、何処へ行っても、どんな和上方に会うても、解決出来んじゃったんです。 それで、履善という方に仕えておったんですが、履善師があんまりですから怒ってね、貴様の様なたちの悪い奴は、博多の仙涯和尚のとこへ行けというて言うたんだそうですね。

それで、仙涯和尚のとこまで行ったんだそうです。そうしたら、仙涯和尚のところで、上げてもろうたんだそうです。禅宗の寺ですからね。上げてもらった事は、良かったそうな。ところが、長いこと待っとったら、奥からひょこひょこと出て来たんですね、仙涯和尚が。 老僧ですからね。それで、そのお寺の住職にどう言うたかというとね、お寺の住職は命懸けで来とるんですからね、ところが、どうか言うたらね、「貴様」と言うた言うんです。 わしも口が悪いけど、仙涯和尚はもっと口が悪いんです。わしは、そんな事は言うた事無い。ねぇ、なんぼ口が悪うてもね、仙涯和尚は、命賭けで来た住職に「貴様」と言うたんですから。 それでね、「貴様、南無阿弥陀仏の他に何の不足があってここにやって来たか。」と言うて、怒鳴りつけたという。 それで、さっさと奥に引っ込んでしもうたんです。それっきりで、何もない。 わしも、これやったろうかいと思うんです。これでもうやめたろうかと思うんです。これで終りや。ええじゃないですか、ね。しかし、あんた方、これどうですか。命賭けで博多まで聞きに来てね、怒られに来た様なもんです。

ところが、これが本当の善知識いうもんです。恐らくこれ、現在の真宗のお坊さんでね、これが言える方はおらん思うんです。『歎異抄』の第二章も、これと同じ事です。南無阿弥陀仏と相撲とらんで、何かいね、相撲とる相手が違うとりやせんか、皆。

坊さんの言うた事と相撲とったら、仏法で無い様になる。それで、ええじゃ、悪いじゃ言うて、点数ばっかり付けるんですから。今日の話しは良かったじゃ、悪かったじゃというてね。話しを聞いて何になるか。仏法聞かんで話し聞いて何になるか。 仏法は、話しでないんですよ。それに、点数ばっかり付ける。点数付けるの上手になっても、何にもならんじゃないか、駄目じゃないかこれ。仏法を聞かにゃ駄目じゃないか。仏法に遇うんじゃ。ところが、仙涯和尚に怒鳴られた住職は、分からんじゃったんですね。 しかし、これは、満点の答えですよ。蓮如さんの『御文章』は、全部そうなっとるでしょうが。『御文章』の安心は、全部そうなっとるんですよ。

ですから、『御文章』はね、一心に弥陀をたのむとありましょう。助かる・助からんは、弥陀の受け持ちじゃいう事。それが受け持ちを間違うとね、鼻の中でソーメン食べるようなもんです。やってみなはれ、今日の晩御飯の時に。どうかね、鼻の中でソーメン食べる人あるかい。 なんぼ、東京の人でも、やった事なかろう。どうかね、今日はあんまりあわてたからいうてね、うちの子供は、さっき鼻でソーメン食べたいうて、なかろうね。受け持ちが違うが、何ぼ親類関係で鼻と口が近うてもね。 やっぱり口は口で、鼻は鼻で、受け持ちが違うじゃろ。それが目を開けてよう聞く人ほど、たちか悪いんです。何を聞いとるんかね。

ですから、十二光という事は、そういう事なんです。助かる・助からんは、みな弥陀の受け持ちになっとると言う事なんです。それがどうか言うたら、全部おさめたら、無碍光ということなんです。

ところが、無碍光のまえに二つあるね。わしゃ忘れとるんじゃないんで、ちゃんと憶えておるんですから。これね、まえに二つ、無量光と無辺光というのがありましょうが。あれはね、無量光は何時でもという事なんです.それから、無辺光は何処でもということですね。それで、何時でも言うたら、「今」いう事なんです。何処でも言うたら、「ここ」いう事ですね。ところが、「今・ここ」言うたら、このわしが、自分自身がおるところという事なんです。

あんた方、どうですか、自分をさがした人は、手を挙げてもらいましょうか。さぁ、わしは、まえは向うに居ったが、今は何処に行っちょるかわからんと、言うかね。わしは、さっきまで上に居ったんじゃが、今何処へ行っとるかと、捜しゃせんで。嫁さんは何処へ行っとるか、子供は何処へ行っとるかというて捜すでしょうが。それじゃったら捜すじゃろうが、あんた方で自分を捜した人居るかいね。もしおったら手を挙げてもらいましょうか。

無いじゃろうね。捜す必要がないじゃろう。南無阿弥陀仏というのは、そういう事です。ええかね。それをね、そういうのを、死人しか関係ない思うとるから、腹が立つやら情けないやら。うちらの檀家にも、これ、死人にしか関係無い様に思うとるのが随分おるんです。それで、わしゃ口が悪うなったんです。そういう者に皆、ピシャッとやったらないかんからね。

ほんまですよ、これ。おまけにテレビでもね、人が死んだらすく仏壇をみせるじゃろ。仏壇のどこが死人に関係あるんですか。それを皆、仏教は死んだ人を拝む様にしてしもうとる。死なにゃ仏壇いらんという者までおる。仏壇は、私しか関係無い。それを、何ということか、仏教が殺されとるんです。それをまた、坊さん達も黙っとる。そんなテレビじゃったら、潰したったらええんです。腹が立って、腹が立って。のう、そうじゃないですか。

それでね、十二光の最後には、超日月光というのがありましょうが。お月さんやお日さん言うたら、どこでも満遍なく行き渡ってましょう。こいつは照らして、こいつは照らさんということは無いね。ところが、東京や大阪じゃったら、地下鉄がありましょうが。地下鉄に乗っとったら、今日の様に雨が降っても分からんね、風が吹いても分からんでしょう。ですから、お月さんやお日さんじゃったら、まだ隠れ場所があるね、逃げ場所かあるでしょうが。

ところが、超日月光いうたら、逃げ場所は無し、隠れ場所が無いという事なんです。何処におっても、救いの法が先に来とるいう事、救いの答えが先にちゃんと与えられとるという事なんです。その与えられたそれをお聞かせにあずかるから、こっちから念を押す事はいらんのですね。 「これでよろしゅうございますか。」と念を押す事はいらん。

間違いの無いものは、聞いたのがが間違い無いんじゃない。聞えた六字の法が間違い無いんですから。ですから、間違い無いものは、弥陀の方が間違い無い。それが先に与えられとるんですから、わしの方のはからいはね、置いておかにゃしょうがない。

ですから、与えられたそのままと言うんですね。これを間違うたらあかんのですよ。今日は曇っとるいうたら、曇っとるんが間違いないんじゃろ。違いますかいね。曇っとると思うとるんが間違いないのか、曇っとるんが間違いないのか、どっちかね。信心というたら、たいてい思っとるという事に力が入るね。これ、自力の信という事です。思うとるんが間違いないのと違うんでしょうが。曇っとるんが間違いないんですね。

ですから、間違いない法に遇わしてもらうという事です。何故か言うたらね、蓮如さんはね、よく証拠という言葉を使うておいでになる。 証拠という。これは、『御一代聞書』の中に何回も出ます。で、四帖目の八通の「御文章」にも、「されば南無阿弥陀仏ともうす体は、われらの往生の定まりたる証拠」と、こう書いてありますね「注8]。 これ、「さだまりたる証拠」というてありますね。

ですから、聞いて解決するんでなしに、解決の出来ている法、これ本願成就という事ですからね、それが何時でも・何処でも・誰にでも、ちゃんと届けられとるんですからね、それを聞かしてもらうんです。ですから、お聞かせにあずかったそのままと言う事、これが他力の信という事ですね。

こっちの聞いたものが間違いないんじゃのうて、聞えた法が間違いない。その間違いのない六字の法を聞かせていただくんです。ですからね、大丈夫になろうとかかるんじゃなく、大丈夫の法を聞くんです。聞いて大丈夫になるんじゃない。それを皆、大丈夫になろうとかかるから、こっちの方に力が入るんです。そう言う事がね、第一番目の特色ですね。

ロ 逆対応性 「如来先手の法」ということ

 それから、もう一つの特色はね、わしゃ、この言葉が好きですから、ちょっと難しい言葉を使いますがね、「逆対応性」と言う事が他力の信の特色と言えるんです。[7]

世界中の宗教でも、これは他には言われんのです。信心にこういう性格は、他にはないですね。この宗教という言葉は、そうじゃないんです。宗教という言葉は、英語で言うと「religion(レリジョン)」という言葉ですからね。仏教で宗教というたら、これは教法という意味なんじゃけど、明治から以後は、これは「レリジョン」の訳語ですからね。レリジョンの語源は、「religare(レリガーレ)」というて、結びつくいうことなんです。結びつくいうたらね、結婚ということを考えてもろうたら一番よう解りましょうが。あんた方は、皆経験ありましょうが。子供衆の結婚でもね、ようお見合いさせましょうが。他人の縁談でも一つ世話してみなはれ、わしもちょいちょいやるけどね、

これ、男の方はええというんじゃ、けど、女の方が嫌い言うんです。どうですか、なんぼ男の方がええというても、女の方がいやじゃというたら、これうまい事いかんが。なんぼ骨折っても、どうもこうもならんが。やっぱり、こう向い合わにゃいかん。ですから、今頃は、出会いという事を言う。出会いという事は、デートのことです。あんた方もう忘れたじゃろうけど。宗教という言葉の意味は、こういう向い合う関係ですね。こういうのは、対応的な関係です。ほとんどの宗教というのは、そういう関係になるんです。神と人間とが向い合う。どこの宗教でも、お願いする宗教、祈る宗教は、皆この対応的な関係になるんですね。ですから、仏教に祈るという事がないということは、こういう対応的な関係が無いと言う事です。わしと仏さんとの関係は、こういう関係で無いんです。もしこういう受け取り方じゃったら、二十願です。それが解らんのですね。残念なことです。まぁ、このけじめは、『教行信証』のすじが一番はっきりしとる。これは道元禅師でも皆そうです[8]。大乗仏教は、こうでなけんにゃ嘘です。ところがね、たいてい、対応的な向い合せになっとるんです。ですから、よう聞いたら助かる、信じたら助かるという。わしが動くと、向うが仏さんがやって来る。これは、西山がこう解釈するんです。

 ところがね、「あう」と言う事は、御開山もやっぱりつかっておいでになるんです。ところが、御開山の「あう」と言うのは、この「会う」の字はつかっておいでにならん。さっき、「本願力に遇いぬれば」という、あれです。あの「あう」は、この「遇う」です。「遇う」というのは、「まうあう」と書いていましょう、御開山が。「正信偈」の「一生造悪値弘誓」の「値」も同じこと、「まうあう」と書いてあるんです。「まうあう」というとね、目上の人から目下の人にあう場合にいうんです。それもね、予想もせんのに遇うた場合にいうんですね。例えばね、まぁ、東京には滅多に行く事はないけど、大坂の心斎橋くらいひとつ行ってね、心斎橋でも五年に一回も行く事無いがね、とにかく心斎橋で東京のあんた方の誰かと遇然に遇うんです。そういう意味が、これ、遇の字ですね。ところが、今頃の若い連中のデートというのは、違うんです。これは何時に何処でというて、どっちももう予想しとるんですから。ですからね、よう聞いたら助かるいうたら、助かる事を予想して聞いとるんですからね、聞いたら仏さんがやってくる事になるね。それで、信じたら助かる、祈ったら助かる、皆こう両方が向い合せになっとる。こういう関係を対応的というんです。こういうのは、仏法ではないんです。そこでね、逆対応というたらどうかというと、わしの側では、救いの法に背を向けとるんです。ところが、仏さんの方からは、逃げとるわしのところまで、何時でも先に来て下さっとるという、この関係が逆対応いうことなんです。

 それはね、「阿弥陀」というのに二つの意味がございましてね、「光明無量・寿命無量で阿弥陀」と、こう『阿弥陀経』はなってますね。ところが、『観経』の「真身観」の「光明遍照十方世界・念仏衆生撮取不捨」と言うのは、あれ阿弥陀と言う事ですからね。それを善導大師はね、『往生礼讃』に一つにされましてね、それを御開山聖人が御和讃にされていますね。その「阿弥陀経和讃」に、

「十方徴塵世界の 念仏の衆生をみそなはし
摂取して捨てざれば 阿弥陀となづけたてまつる」

とありましょうが。あんた方で御存知の方もおいでになると思うんじゃが、この「摂取不捨」のところに、こう書いてありましょうが。「ニグルモノヲ オワエトルナリ」と。わしゃ、逃げとるんじゃ、これ。逃げとるというたら、泥棒と巡査がこう向き合ったら、逃げとるという事にならんじゃろ。泥棒が、こう向うへ向かんにゃ、のう。そうでしょうが。逃げとる言うたら、こう向かんにゃね。ところが、仏さんの側からはどうかと言うたらね、仏さんの側は、これは又ね、善導さんの言葉にあるんです。これね、東京の人は、灯台下暗しというて、案外御存知なかろう思うんじゃけど、わしが申しますから、ひとつ気を付けてみなはれよ。浅草観音というの知らん人は、おらんじゃろうね。浅草観音の両方に石が立っとるじゃろう。あれ、どう言う事か、御存知ないかね。こういう字が書いてあるんです。これは、すばらしい言葉なんですよ。「仏身は円満にして背相無し」という、善導大師の『般舟讃』の文が書いてあるんです。わしが字が上手じゃったら、掛け軸に書いておきやええと思う程有り難い言葉じゃね。

「仏身は円満にして背相無し、十方より来る人皆対面す。」[9]

と言う文が書いてある。見てみなはれ、浅草観音で。これ滅多に消えとりゃすまいと思うがね。ちゃんと有るんですよ。あの近くの方、おいでにならんかね。仏さんは、何時でもわしに背中見せんという。何時でもわしの方に向っとるという事なんです。ですから、丁度逃げとる者と仏さんとの関係になりましょうが。これはね、仏の側からは、ちゃんと来て下さっとるという事です。それで、どうかというたらね、わしがこう、あっち向いとっても、向いとるわしに、ちゃんと来て下さっとるんです。それじゃからね、わしの方は向きが違うんです。その向きの違うこっちの方向へ救いを置くから、いつでも救いは向うにあると思うとるんです。それで、よう聞いたら助かるというて、聞いたら救いが向こうからやって来る様に思うてますね。そういう聞き間違いをね、二十願というんです。二十願や十九願の間違いは、そこにあるんです。中でもね、特に二十願が一番問題になるんです。ですから、親鸞聖人は、一番厳しい締めくくりを二十願のところでしておいでになるんです。どうか言うとね、

「微塵劫を超過すれども、仏願力に帰し難く大信海に入り難し。誠に傷嗟すべし、深く悲歎すべきなり。」((*))

と言っておいでになる。万劫かかっても、御本願に遇えんというんです。これは、皆よう聞いとる人のことで、寝とる人じゃないんです。ですから、考えてみるとね、お説教ほど難しい事は無いと思うんです。まぁ、御寺に参らん人は、これはもう、動物の様なもんじゃ、自分が気にかからんのですから。仏法言うたら、自分が気にかかる事なんです。ですから、「わしは仏法に関心が無い」と言うたら、自分が気にかからんという事です。そしたら、「お内におる犬と同じですな」と、言うたったらええんです。同じ事じゃ、ひとつも違わん。そりゃ、人間の方がたちが悪いだけのもんです。これは、道元禅師の言葉じゃけどね、「仏道を習うというは、自己を習うなり。」というんです。仏法は己れに聞け、己れが気にかかると言う事が、仏法を聞くと言う事になるんです。どうですかこれ、まあ気にかからん人はお寺に参らんね。ところが、己れが気にかかってお寺に参っとってもね、又こういう人がおりますね。せっかく聞いておいでになっても、ここ(眼)に蓋する人があるじゃろう。片方づつにすりゃええんじゃがね。前席は右の眼を開けて、後席は左の眼を開けるという様に。これ練習してみるとええね。ところが、そうはいかんじゃろ。これ両方仲がええから、いっぺんにつぶるね。そうするとね、この耳も親戚ですから、じゃぁわしもというて、これ又お休みになるんです。こういうのを、睡眠蓋(すいめんがい)と言うんです。これは駄目なんで、やっぱり眼は開けなはれよ。

それから、もう一つは、ぼやーと聞くんがあるんです。深川先生は、てれーと聞くというけど、あれとは違うんです。これはね、気分が落ち着かんで、ふわふわと生きとるんか死んどるんか、分からん様な人があるじゃろうが。何言うても、分かった様な分からん様な顔をしとる。これは掉挙蓋(じょうこがい)というて、これも蓋しとるんです。

ところが、一番たちが悪いのはどうか言うとね、眼をくるくるっと開けて聞いとるんが、たちが悪いんです。ですから、これ、お説教というのは難しいもんです。これ程難しいものは無いね。何でか言うたら、蓮如さんの御法話というのは、ずっと調べてみますとね、何時でも今が最後の話しなんです。これは、若い人でも年寄りでも同じこと。仏法は、何時でも今が最後で、この次が無いんです。皆、あると思うとるだけのもんなんですから。何時でも今が最後です。今が最後でも、それでも寝るという人は、よっぽど偉い人ですね。今が最後じゃと言われたら、そうなると眼を開けましょうが。そこから、聞き間違いが始まるんです。そこまでは、まだ間違うところまで行っとらんのじゃ。ところがね、今が最後と言われたら、聞いてものにしようとかかるじゃろう、聞いて助かろうとかかるじゃろう。こうかかったら、万劫かかっても御本願には遇えんのです。それが、二十願の締めくくりになっておるんです。何故か言うたらね、ドアが有りましょう、あの引っ張ったら開くんがありましょうが。これ、一回やってみなはれ。寝とる人はこれやったらよう分かるんじゃけどね、引っ張ったら開くのを押すんです。一日中押しても、開かんじゃろう。押しゃ押す程、硬うなるで、やってみなはれ。眠たい人は、やってもろうたらよう解るんじゃけどね。引っ張ったら開くドアを、押すんです。開くかいね、これ。東京のドアは開くかいね、開かんじゃろう。引っ張ったら開くのを押すんですから。聞き間違いと言うのは、こういう聞き様なんです。それが二十願というんです。ですから、対応的というたらね、向うに救いを置くんです。二十願がこれじゃけど、どこの宗教でも皆同じ事です。こうなったら、平生業成は、成り立たんね。また、救いを向うに置くから、祈るという事が成り立つんです。こっちから救いの法へ向って行くんですから。ところが、浄土真宗は、そうではないんです。ドアを引っ張ったら開くという事は、向こうから来て下さっとるということです。向こうから開いているということなんです。それを、こっちが先に手を出すから、万劫かかっても助からんということになるんですね。それが、逆対応と言う事なんです。

 そこで、蓮如さんは、これをどういう様に言われとるか言うことですね。逆対応 いうことは、『教行信証』の構造がそうなっとるんですが、今度はひとつ蓮如さんの上で聞きますとね。蓮如さんの上では、これが「助け給へと一心に弥陀をたのむ」と言う事なんです。これがね、これが『御文章』の一番うまいところです。うまいいうたら、一番うまいのを醍醐味と言いましょうが。東京の方は、言わんかいね。醍醐味というて、言うじゃろう。一番うまいところは、醍醐味ですね。この「助け給へと一心に弥陀をたのむ」というのが、御再興の言葉というのです。この事が、案外解らんのですね。この「助けたまえ」を三業派が「請求(しょうぐ)」と誤解して、三業惑乱が出て来るんですからね。請求というのは、助けて下さいということ。ですから、祈るというのと同じですね。祈るというのは、こっちからお願いするんですから。ところがね、蓮如さんの『御文章』でも、『帖外御文章』には三ヵ所程、「助けたまえ」を「請求」の意味でつかっておいでになるんです。ところが、その場合は、「信心決定のうえからは、助けたまえど思うて念仏するんじゃない。御恩報謝の念仏じゃ。」と言われとるんです。ところが、文明三年からの『帖内御文章』では、「助けたまえ」を「請求」の意味でつかっておいでになるところは、一ヵ所もないんです。文明三年からは、「助けたまえ」はすべて「許諾(こだく)」という、「おまかせする」意味に変っとるんです。

 そうすると、何故そうなっとるかと言うと、まず「たのむ」ということが「帰命」ということです[注9]。これは、「おまかせする」いうこと、「おおせのまま」という事ですね。ところがね、「助けたまえ」も、これも「帰命」なんです。これは「無上甚深功徳章」という、五帖目の十三通にちゃんとそうなってます。あの御文章を拝読するど、「それ帰命といふはすなはちたすけたまへとまうすこころなり。」とこう書いてます。そうすると、「たのむ」と「助けたまえ」とは、これイコールです ね。そのイコールという事をあらわすのが「と」なんです。

 これは、文法にちゃんと適うておってね、こういう意味なんです。この「と」は、「あなたと私」いう「と」とは違うんです。「あなたと私」という「と」は一緒ということですね。英語で訳したら、「with(ウィズ)」ですからね。それから、「これとこれと」という「と」とも違うね。この「助けたまえとたのむ」の「と」はね、子供衆を叱る時に言いましょうが、「二度と再びこういうことをすると承知せんぞ。」という、あの「と」なんです。この「と」は、『御文章』には沢山出て来るんです。さっき深川先生のおっしゃった「自然法爾章」の「南無阿弥陀仏とたのませたまいて」というのも、「たのませたまう」がイコール「南無阿弥陀仏」という事。

 そうすると、「助けたまえ」と「たのむ」がイコールというても、「たのむ」の方は、「おおせのまま」という意味しかないから、動かんですね。ところが、「助けたまえ」の方は、「おまかせする」と「お願いする」との二つの意味があるから、動きましょうが。それで、どう動くかというと、わしが先になったら、「お願いする」という、こっちの「請求」の意味になる。ところが、わしの方が後じゃったら、「おまかせする」という、こちらの「許諾」の意味になるね。それで、「おまかせする」という意味につかってあるという事はね、浅原才一じゃないが、「わしゃつまらん、後ばかり。」という事になるんです。六連島のお軽同行の歌にはね、「弥陀のお慈悲を聞いてみりゃ、聞くより先のお助けじゃ。」という。聞くより先のお助けが、先手になる。それが、何時でも・何処でも・誰にでも、ちゃんと先手で届いておるから、そこで、今聞かせていただいたここしか助かる場所がない言う事になる。それが平生業成です。

 ですから、何時でも今しか無い。今がしまいでもね、今日初めて聞いた方でも心配要らんのです。聞いて解決するんじゃったらもう駄目です。まだ解決出来とらんじゃないか。じゃけど、解決の出来とる法が、ちゃんとね、わしが手元に届いとろうが。ですから、お聞かせにあずかったその場所が、助かる場所。それで、平生業成という事になる。ですから、祈るという事は浄土真宗には通じないという事が、そこで言えるわけですね。浄土真宗いうことは、祈らん宗教いうことです。如来の真実が、先手でわしにはたらくんですから、もう、こっちのものは、一切入る隙間がないということです。

ハ 無所得性 「ものがらが無い」ということ

 そこで、他力の信心のもう一つの特色がある。これでもうしまいですからね。 あんまり時間が遅うなったら、御都合のある方もおいでになるじゃろうからね。

 それでね、もう一つの大事なことは、他力の信には、私の側にはものがらがないという事なんです。もし出来たら、嘘です。信じておりますという様な、いただいておりますという様な信心は、これは、どこかの何とか会では言うじゃろうが、他力の信心とは違う。何とか会じゃったら、「はい、いただいております。」と言うじゃろうがね。いただいておりますと言う様な、信じておりますと言う様なのは、キリスト教が言うんです。ですから、キリスト教ではね、「あなたは、神を信じていますか。」と聞くと、「はい、信じております。」と言うね。これが皆、けんかの種になるんです。宗教というのはね、一番恐ろしいもんじゃ、これ。浄土真宗の信からはね、絶対にけんかの種は出てこんのです。こっちのものが、はたらかんのですから。ところが、信じておりますと言うたらね、こっちが信じとるんでしょうが。ですから、大抵、どこの宗教でもね、祈る宗教は、「信じております。」と言う宗教ですね。それで、お前は間違っておると言うたら、間違っておらんと硬うなるもんです。

 この前ね、子供を連れて来る何とかいう宗教がありましょうが。新興宗教か何か知らんが、あれがやって来ましてね。わしゃ、これひとつ真宗に入れてやろう思うて、上げてやってから、力入れて話した事があるんです。うちへ来ましたからね、お寺に来るんですから厚かましいが。それで、やったろう思うてキリストの事聞いてやっても、わし程も知らんのですからね。吊るし上げにして真宗に替えたろうと思うても、ちょっと簡単には動かんね。他のどの宗教でもね、例えば何とかいう学会でもね、宗教いうたら、揺さぶるほど硬うなるんです。この間、その何とか言う学会の人に聞いたけど、週刊誌でも、よう叩かれとるじゃろう、ああなると、硬うなるそうです。法難じゃと言うそうな。悪口書かれると、みな法難じゃというんですからね。


 ですから、信じ込むいうたら、他からの事を聞く耳が無い様になる。それで、自分だけええ気持になる。こういうのはね、マルクスやレーニンが言うた通りの宗教です。阿片や毒酒と同じです。自分だけは、閉じられた世界でええ気持になって、他の言う事は一切聞かん様になる。ところが、仏教はね、そういう閉じられたもんじゃない。開放されたもんです。どんな者からも聞く耳を開く。それを、柔軟心と言うんです。硬うならん。それで、柔軟心いうたらね、これは、本来は悟りの事を言うんです。ところが、親鸞聖人は、この柔軟という事、触光柔軟という事を信心の利益(りやく)にしておられるんです。これはね、他力の信心は、硬うならんという事、開かれた信という事です。

ですからね、鳥取の源左さんの生き方みなはれ、キリスト教の人が見ても、どの宗教の人が見ても、皆通じますから、頭が下がりますから。開かれとるからです。自分だけ正しい・善いと思うとる人はね、この分は、他の人から見たら駄目なもんじゃ。「ありゃ一杯やっとるな」という様なもんです。閉じられた宗教というのはね、マルクスやレーニンの言う通り、丁度酒飲んで酔っ払った様なもんです。あんた方で、酒飲みの専門家はおいでにならんかね。わしゃ経験がないから解らんけど、酔うたらええ気持になるもんじゃろう。自分が天下取った様な気持になるんじゃろう。ところが、誰が相手にしますか。「こいつ一杯やっとるな」という様なもんじゃろう。宗教というのは、これが閉じられとると、そういうものなんじゃ。ところがね、他力の信は、違うんです。何でかと言うたら、ものがらがわしの側に無いからね。これ、助かるものがらを、わしの側に持っとるから硬うなるんです。

 例えばね、東京の人は財閥が多いから、まぁ一千万円持っとるとするじゃろう。一千万円位小遣いか知らんけど、一千万円持っとるとするね。わしなんか、夢でしか見んけどね。それで、地下鉄の暗いとこ乗るとしょうかい。ところがね、強盗でもやりかねん様なんが隣に座ったんです。やるかやらんか知らんけど、そう見えるんじゃ、疑心暗鬼ですからね。そうすると寝られますか。なんぼお婆ちゃんでも、寝られんじゃろう。こいつが盗りゃせんかと思うて、硬うなるじゃろう。これ、持っとるから硬うなるんです。わしなど持っとらんから、何処でも寝られる。持っとらんからね。

 ですからね、硬うなるのは、皆こっちがつかむから硬うなるんです。こっちにね、何か助かるものがら、これでこそというのをつかんだら、所有化したら全部駄目です。他力の信は、こっちにものがらが無い。これを、無所得性と言うてもええんです。これでなけりゃ仏法でない。これがわからんのですね。ですから、御開山はね、「信の巻」だけは、ものがらを出しておられんのです。出体釈が抜けてます、一番大事な「信の巻」で。教巻・行巻・証巻、みな出体釈が出てます。信巻だけ出体釈が無い、ものがらがないんです。信のものがらは、有ることは有るんです。ものがらを言えば、前の行巻がそうなんです。この行信の関係はね、丁度こう言う関係でありましてね。この喩えも語弊がありますけど、こちらの「行」が水です、そうすると、この「信」は波です。波、ご存じかね。知らん人は手を挙げてもらおうかね。波、御存じじゃろう。波を御存じで無い方は、海に見に行きなはれよ。波というのはね、水が無いと立たんでしょうが。どんなに大風が吹いても、水が無いと立たんね。ここらでは、波は立たんね、水がないから。ですから、水のまんまが動いとるんが波ですね、違うかね。そうか言うても、波と水は違うで。コップ一杯波くれとは、言わんが。波と水は、違うじゃろう。そうか言うて、水が無いのに波だけが立つという事も無いね。行と信は、この関係なんです。ですから、もし信のものがらは何かというと、前の大行がものがらという事になる。南無阿弥陀仏が、信のものがらです。わしの側でこさえたものは、ものがらにならん。みんな置いとくんです。

 そうするとものがらが無いのにね、信心を獲るという言いましょうが。いただくと言う。あるいは、広島あたりでは、もらうと言う。それから、『御文章』では、獲得すると言う。ですからね、御安心をお聞きになって、ここで皆ひっかるんです。どうしてもこれはね、もろうたら、もろうたものがらを考えるじゃろう。あんた方でも、もろうたらもろうた物が有りましょうが。御布施でもね、何も入っとらん紙だけもろうたら、もろうた事にならん。やっぱり入っとらにゃいかんね。わしゃ今まで二回程、空っぽじゃった事がある。その分は、紙だけもろうたのは、もろうた事にならん。ですからね、どうですかこれ、もろうたらもろうたものが有りましょうが。のう、そうすると、たいてい御信心というものがらをさがすんです。安心が出来た、大丈夫になったというて、こっちに大丈夫のものをこしらえにかかる。これが皆うそです。何故かと言うたらね、水の無い所に波こしらえる様なもんですから。水と別個に波こしらえるんです。安心するもの、大丈夫のものと、ね。ですから皆これ、こっちでこしらえたものがらですね。みんな、ここで引っ掛かるんじゃ。

 ところがね、蓮如さんはね、「信心を獲る」という事を随分やかましゅう言ってますね。ところが、さて信心を獲るということはどういう事かいうと、こうおっしゃっとるんです。これでみんな摂(おさ)まるんです。どうかいうとね、「自力の心を捨てて、一心に弥陀をたのむ。」というんです。もう、この表現が一番いいんです。わかり易い。これが信心をいただくという意味になるんです。これは、ぴしゃっとすじが通っとるんです。

ところが、「自力の心を捨てる」と「弥陀をたのむ」とは、これは別でないんですよ。自力の心を捨ててから、一心に弥陀をたのむんじゃないんですよ。自力の心は、わしの方からは絶対に捨てられんのです。捨てたと思うたら、又拾うとるんですから。なかなか、これはたちが悪いからね。絶対に捨てられん。もし自分で自力心をとろう思うたら、自分の目で自分を見る様なもんです。絶対にこれは出来んじゃろう。そこでね、この「一心に」は「ひとすじに」ということ、「弥陀」は「南無阿弥陀仏」の六字の事を略して弥陀とおっしゃっとるんです。そうするとね、助かる助からんは、全部「六字」の受け持ちという事です。「たのむ」というたら、「おまかせする」いうたら、そういう事です。そしたらね、これは、「お前の仕事は置いとけ」ということなんです。ですから、他力の信いうたら、わしの側のものが無いということになる。助かる助からんは、こっち(弥陀)の受持ちなんじゃ。

 庄松さんがね、御髪剃り受ける時に、御法主の袖引っ張ったというね。「兄貴覚悟はいいか」って袖引っ張ったという。あんた方これやってみなはれ。そしたらこれね、後から今度は御法主の方から呼び出されて、「そう言うお前さんは、どんな覚悟しとる。」と、逆に聞かれたというね。そうしたら庄松さんは、「俺の事は知らん。あれ(弥陀)に聞け。」と言うたというね。これどうですか、「俺の事は知らん」という事は、「自力の心を捨てる」いう事です。「あれ(弥陀)に聞け」という事は、「一心に弥陀をたのむ」という事。これがわからん人おるかね。他力の信にはものがらが無い、ものがらがこっちに残らんという事が。こっちが聞いて間違いなくなるんじゃない、間違いのない法をお聞かせにあずかる。それが先ですから、なんぼ頑張ってもこっちの仕事は、置いとかにゃしょうがない、はからいが入りようがない。それが他力の信心ということ。そうするとね、六字がね、これ因法というんですが、六字が今わしの上に、ちょうど因法としてはたらいとるんです。その因のそのままが果になったのが浄土。これが成仏ということ。ですから、もうこの浄土っていう世界はね、有るか無いかっていう世界と世界が違う、場が違う。六字のね、六字の行方がお浄土ということです。ですから念仏往生って言いましょうが。そういう事がね、他力の信の特色と言うことなんです。ですから浄土真宗はこっちのものが、どうしたって一つも入る隙間が無い。それで、祈るという事は言わないんであります。

『御文章』拝読

 聖人(親鸞)一流の御勧化のおもむきは、信心をもつて本とせられ候ふ。そのゆゑは、もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、仏のかたより往生は治定せしめたまふ。その位を「一念発起入正定之聚」(論註・上意)とも釈し、そのうへの称名念仏は、如来わが往生を定めたまひし御恩報尽の念仏とこころうべきなり。あなかしこ、あなかしこ。


彰順会=編 『如来をきく]より一部抜粋


[注7] 一 前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。他力信心他力信心とみれば、あやまりなきよし仰せられ候ふ。

[注8] かるがゆゑに、阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓ひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。されば他力の信心獲得すといふも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。

[注9] それ南無阿弥陀仏といふは、すなはちこれ念仏行者の安心の体なりとおもふべし。 そのゆゑは、「南無」といふは帰命なり。「即是帰命」といふは、われらごときの無善造悪の凡夫のうへにおいて、阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなりとしるべし。


  1. 御開山は文明本の和讃では、
    (4)
    智慧の光明はかりなし (十二光の無量光)
     有量の諸相ことごとく
     光暁かぶらぬものはなし
     真実明帰命せよ
    (5)
    解脱の光輪きはもなし (無辺光)
     光触かぶるものはみな
     有無をはなるとのべたまふ
     平等覚帰命せよ
    (6)
    光雲無碍如虚空 (無碍光)
     一切の有碍にさはりなし
     光沢かぶらぬものぞなき
     難思議帰命せよ
    と(4)(5)では「に」とされておられるのだが、(6)から「難思議帰命せよ」と「を」とされる。しかして国宝本の和讃では(浄土和讃(国宝本))(6)以下の和讃では(4)(5)と同じくとされておられた。
  2. この句の「他力とは野中にたてる竹なれや」とは、稲刈りのあと乾燥させるために稲束を竹に架けてることをいう。稲が乾いてくるとそばに寄って竹に触れば稲の穂の実がパラパラと落ちてしまう。このことから他力(本願力)の法には凡夫の側からあれこれと、はからいの手を出すべきではないという意味である。よりさわらぬは御開山の云われる「義なきを義とす」という意味でもある。田舎の農民の日々の暮らしの機微をご存知であった良寛さんらしい句である。
    なお、よく似た句に「他力とは野中に立てる一つ松 寄り触らぬを他力とはいう」(未見)があるそうだが、この場合は法然聖人が「本願の念仏には、ひとりたちをせさせて助(すけ)をささぬ也。助さす程の人は、極楽の辺地にむまる。すけと申すは、智恵をも助にさし、持戒をもすけにさし、道心をも助にさし、慈悲をもすけにさす也。」(諸人伝説の詞)と仰ったように、選択本願のご法義は、なんまんだぶ(念仏)一行を行じて報土に往生するのであって安心においては助業を用いないことを「寄り触らぬを他力とはいう」と云われたのであろう。
  3. 猶予不定(ゆうよふじょう)。 迷いを超える仏教の理(ことわり)に対して、猶予して決定しない精神の作用のこと。信に相対する。
  4. 無疑(むぎ)。疑いが無いといふ意。御開山には直接には漢語の「信心」=「無疑」といふ表現の言葉は無い。ただ「疑蓋無雑(ぎがい-むぞう)」といふ表現がある。『一念多念証文』には、「「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。」とあり『唯信鈔文意』には「「信」はうたがひなきこころなり、すなはちこれ真実の信心なり」とあるのは「信心」=「無疑」の意であろう。和上はここでは「不疑」と対応させる意図で「無疑」と表現されたのであろう。
  5. 不疑(ふぎ)。疑わないといふこと。疑わない心とは要するに思い込む自力の信を意味する。
  6. 説教中に居眠りをしている人。
  7. 逆対応(ぎゃく-たいおう)。西田幾多郎氏の使われた用語で、絶対と相対(人間)という相対立するものが、自己否定的に対応しあう宗教的関係を表す概念。ここでは浄土真宗の「信」は対応関係ではなく、一方的に仏から衆生へのベクトルを逆対応といふ。
  8. 道元禅師には「仏道をならうというは、自己をならうなり。自己をならうというは、自己をわするるなり、自己をわするるというは、万法に証せらるるなり」とある。
  9. 漢文:仏身円満無背相 十方来人皆対面