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義なきを義とす

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御開山は、晩年に法然聖人からお聞きした言葉として「義なきを義とす」といふ語をよく使われておられた。承元の法難(1207)で法然聖人と別離してから50年程の時を経ているのだが御開山の耳底に残っていた言葉が「義なきを義とす」の語であった。
この「義なきを義とす」の意味を、梯實圓和上の聖典セミナー『歎異抄』の記述 p.266 から窺ってみる。


第十条 はからいの誡め

{本文と現代語を略}

義なきを義とす

 「無義をもって義とす」という言葉は、もともと法然聖人の法語であったと親鸞聖人はいわれています。『親鸞聖人御消息』第六通に、

如来の御ちかひなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)の仰せごとにてありき。義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふなり。他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり。 (御消息 P.746)

といわれたのをはじめ、親鸞聖人の晩年の御著述や手紙のなかに、法然聖人の仰せとして、ひんぱんに用いられています。
 それも多くは「他力には義なきを義とす」とか「他力には義なきをもって義とす」とか「他力不思議にいりぬれば、義なきを義とすを信知せり」というように、人間の思慮分別(しりょぶんべつ)を超えた本願他力に対して、私の計量(けりょう)、すなわちはからいをいささかもまじえてはならないと、他力の受け取りかたを知らせる法語でした。すなわち作者(さしゃ) [1]のはからいをまじえないことが、他力の正しい受け取り方であるということです。もっとも法然聖人が「義のないことを義とする」といわれたときは、いささかの言葉遊びに似たユーモラスな表現だったのではないでしょうか。それゆえ一般の門弟は聞き流してしまったのかも知れません。
ともあれ『歎異抄』で「念仏には無義をもって義とす」といわれているのも、他力の念仏のいただきかた、もっといえば本願念仏の他力性についての領解について述べられたものであるというべきでしょう。念仏は「お願いだから、わが名を称えてくれ、必ず浄土に生まれしめる」と如来が決められた本願の行であって、私のはからいによって、称えて往生しようと決めていくような自力の行ではありません。 ただひとすじに本願の御(おん)はからいにうながされて、仰せにしたがって称えている信順の行なのです。こうした他力の念仏のいわれを知らせるために「無義をもつて義とす」といわれたわけです。

法然聖人の法語

 ところで親鸞聖人は「他力には義なきを義とす」とは、法然聖人の法語であったといわれていますが、『選択集』をはじめ、現存している法然聖人のご著述やご法語、お手紙のなかには見当たりません。 わずかに真為未詳の文献である「護念経の奥に記せる御詞(おんことば)」の中に「浄土宗安心起行の事、義なきを義とし、様なきを様とす。浅きは深きなり」といわれているぐらいです。 そのこころは、浄土宗の信心と念仏についていえば、信心は、はからいをまじえないことを本義とし、念仏の称えようは、称えようをせんさくしないのが正しい称えようである、この教えは浅く見えるが、実は深い如来のご配慮のたまものであるというのでしょう。 もっとも法然門下の上足の一人であった正信房湛空が「念仏宗は、義なきを義とする也」といっていたと『一言芳談』(岩波 日本古典文学大系八三・二〇二頁) にでていますから、法然聖人のおおせであることの傍証にはなりましょう。
 また「和語灯録」第五巻には、

念仏往生の義を、ふかくもかたくも申さん人は、つやつや本願の義をしらざる人と心うべし。

という法然聖人の法語が記録されています。念仏往生の教義を、いかにも深遠そうにあげつらい、むつかしくいう人は、本願の正しいいいわれを全く知らない人だというのですから「義なきを義とす」と同じ発想であったといえましょう。『一言放談』(岩波 日本古典文学大系八三・二〇八頁) にも、

念仏の義を深く云事は、還而浅事也(還りて浅きことなり)

という法然聖人の法語がでています。 本願他力の法義は、どんな愚かなものにも、またたとえ臨終のせまった重病人にもすぐにわかるように成就されているのだから、難解な教義をあげつらう知解を主とした聖道仏教とは全くちがうということを、「義なきを義とす」といわれたのでした。

義と「はからい」について

 さて「義なき義とす」の「義なき」とは行者の自力のはからいのないことであると親鸞聖人は釈されていますが、どうして「義」が自力のはからいの事になるのでしょうか。
 もともと「義」とは、「宜(ぎ)」とか「誼(ぎ)」と同じく、ものごとの正しいすじ道、道理のことでした。 多屋頼俊氏の『歎異抄新註』(八一頁) によると、『礼記疏』に「義とは裁断して宣しきに合す」(義者裁断合宜)といわれているように、善を善とし、悪を悪と判断し批判することを義といったから、「はからう」の意味をもっていたといわれています。そして次の「義とす」といわれた「義」とは、本義ということで、他力のもつ本来の道理のこととされています。
 梅原真隆氏の『正信偈歎異抄講義』(三二五)には、「義なし」の義は「凡夫のはからい」であり、「義とす」の義は「如来の御はからい」のこととみて「われらの義(はからい)をはなれたところが、そのまま、如来の御(おん)義におまかせした心境である」といわれています。
 たしかに親鸞聖人は、他力とは如来の御はからいであるから、行者のはからいはいささかもまじえてはならないとつねに誡められていました。『親鸞聖人御消息』(「註釈版聖典」776頁)に、

弥陀の本願を信じ候ひぬるうへには、義なきを義とすとこそ大師聖人(法然)の仰せにて候へ。……また他力と申すは、仏智不思議にて候ふなるときに、煩悩具足の凡夫の無上覚のさとりを得候ふなることをば、仏と仏のみ御はからひなり、さらに行者のはからひにあらず候ふ。しかれば、義なきを義とすと候ふなり。義と申すことは自力のひとのはからひを申すなり。

といわれているとおりです。しかしここでも義とは行者のはからいをさし、否定的に用いられていて、「義」を如来の御はからい表すことばとして用いられた例は一つもありませんし、「義とす」を「如来の御はからい」とすると、この文章は「他力(念仏)には、行者のはからいのないことをもって如来の御はからいとす」という奇妙な句になってしまいます。
 そのほか、この法語については、いろいろな解釈がありますが、私は多屋氏の説のように「他力念仏には、行者のはからいをまじえないことをもって本義とする」といわれたものが妥当であると思います。


  1. 作者(さしゃ)。行為を作(な)す者。