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無我

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無我といふ言葉には、我はない、我でない、といふ両義がある。近代仏教は、我は無いといふ一義だけによって仏教は我といふものを認めない無我説であり無霊魂説であるとしてきた。一方的に「我はない」の一義に固守して縁起による往生の主体を否定してきたのが近代仏教であった。

武邑尚邦和上は、「悟りを開き正覚を成ぜられた釈尊が、自分は既に世界の人々の中で最高の悟りを開いたので、いまはどのようなものも頼りにする必要はなくなった。そして無常苦を克服し苦は無くなった筈なのに、尊敬し頼りにするものなくして、今此処にこうして生きていることは、実に苦しいといっていられるのである。無我が前に述べたように、従来インドで説かれていたātmanの単なる否定でなく、我でないものを我であるが如く執着することへの否定を意昧するとすれば、その執着心を断尽した釈尊が何故に苦なりと言われるのであろうか。このように考える時、この実に苦しいとの言葉は、尊敬し頼りにするものの無を言うのであるから、無我とは最後の拠り所の無を意味するというべきである。絶対に間違うことのない頼りになるものの無が無我の意味である。」

とおっしゃっていた。これは我が頼りになるものに非ずといふ非我であろう。
仏伝では、釈尊はさとりを成就して、そのまま灰身滅智無余涅槃へ入ろうとされたのだが、インドの神々である帝釈天梵天などが、釈尊が(さと)った法を人々に説くことを願ったので、(さと)った法を説く(転法輪)決意をされたとインド神話風に伝える。『無量寿経』にも「釈・梵、祈勧して転法輪を請ず。」(大経 P.5) とある。
しかして、神話的表現ではなく。釈尊が「我が悟りし法に生きようといわれるのである」と法によって生きるといふ転法輪の一生を選ばれたといふ武邑尚邦和上の考察は示唆に富むものである。この頁では無我(我はない)の視点では無く、非我(我にあらず)といふ視点から考察されている武邑尚邦和上の論文の一端を窺う。


東西思想と仏教思想

武邑尚邦

無常苦に悩み修行の後、一切法無我と悟りを開かれたのが釈尊であった。ここに無我とは常一主宰(ātman)の存在しないことをいうとして、我の存在の否定と考えられてきたが、釈尊の持言を多く含むと考えられる古聖典には「自己の利益を辨えよ」〈vijqney ya sakam atta/.)〈Theragqta, 587〉、「賢者は自己の利をみて正しく法を思慮せよ」(pazfito paso, sampassa/ attha/ attano, yoniso vicine dhamma/.)〈S.N. I. p.34〉などと説かれ、必ずしもātmanの存在の否定のみを意味するものでない。経典には「神並びに世人は非我なるものを我と思いなし、名称と形態とに執着している」〈S.N.〉ととき、自己の身体、家族、財産、地位など自分にとって大切なものを我とみなしてとらわれていると、この様なとらわれの否定を無我といったことを述ベている。このようにanātmanやnirātmanは単なる自己の存在の否定ではないとすれば、それは釈尊にとってどのような自覚であったのだろうか。これについて次の経典は注意してみるべきであろう。それは『雑阿合経』の「尊重」S.N. 6.2gqrabo(南伝大. 12. p.234-)である。

《是の如く我聞けり。一時世尊ウルベーラの林、ネーランジャナ河の辺り、アジャパ一ラ・ニグロドハの樹の下に住したまいき、正に正覚を成じたまいし時なり。
その時、世尊は独坐静観して、かくの如く考え給いぬ。尊敬するものなく〈agqrava〉恭敬するものなくして〈appatissa〉住すること〈viharati〉は、実に苦しいことである〈dukkham kho〉。我はいかなる沙門婆羅門を敬い〈sakkatvq〉尊び〈garukatvq〉頼りにして〈upanissqya〉住すベき〈vihareyya〉であろうか。と。
時に、世尊は次の如く考えたもうた。未だ完成されない戒蘊の完成のためには、他の沙門、婆羅門を尊び敬い頼りにして住すベし。されど、我は天界魔界梵天界を含む全世界において、沙門婆羅門人天を含む衆の中において、我よりもよく戒を完成した他の沙門婆羅門の敬い尊び頼りにして住すべきものを見ず。
〔次下に定・慧・解脱・解脱知見の四種について同じように述ベる〕、我は、わが悟りし法、この法をこそ敬い尊び頼りにして住すべきである。》

等と述べているのである。

ここに説かれるように、悟りを開き正覚を成ぜられた釈尊が、自分は既に世界の人々の中で最高の悟りを開いたので、いまはどのようなものも頼りにする必要はなくなった。そして無常苦を克服し苦は無くなった筈なのに、尊敬し頼りにするものなくして、今此処にこうして生きていることは、実に苦しいといっていられるのである。無我が前に述べたように、従来インドで説かれていたātmanの単なる否定でなく、我でないものを我であるが如く執着することへの否定を意昧するとすれば、その執着心を断尽した釈尊が何故に苦なりと言われるのであろうか。このように考える時、この実に苦しいとの言葉は、尊敬し頼りにするものの無を言うのであるから、無我とは最後の拠り所の無を意味するというべきである。絶対に間違うことのない頼りになるものの無が無我の意味である。悟った釈尊の何も頼るものがないとの無我の自覚は、釈尊を絶望の淵に追い詰めたのである。頼る者無くして一時も生きられない人生に、自己も自己を取り巻く一切も頼る当てにならないと自覚した釈尊は生きる術をなくされたのである。このまま灰身滅智無余涅槃へと考えられたのも無理のないことであった。

しかし、やがて釈尊は菩堤樹の下の悟りの座を立つて伝道の旅に出られ、それ以後一生を弟子達と共に自覚された法に生きられたのである。「我が悟りし法、この法を敬い尊び頼りにして住すべきである」との宣言は、これを物語るものであろう。即ち、無我と悟って無我の自覚に苦しまれた釈尊が、我が悟りし法に生きようといわれるのである。しかも、これこそが「法としてしかるべきこと」〈dhammatq〉「自己の利を願い〈atthakqma〉偉大なることを望ものにとって正しいことである」と経典はのべている。それでは、一体正法を敬い尊び頼りにして生きることが如法であるとは、具体的に何をいうのであろうか、この場合、正法が縁起の法を意味することはいうまでもないであろう。とすれば、正法によって生きるとは縁起を生きることであり、今日的な言い方をすれば「一切のもののカによって生かされて生きている事実を事実のままに生きる」ことである。後世、一切の存在は与カ不障の縁によって生じてあるといわれるのは、これを意味しているのである。釈尊は自ら悟った法を相手にむかって説くこと、即ち説法に生きられたのである。四諦の説法は、自ら苦しまれた苦悩を語りながら一切皆苦こそ諦理諦実であると説き、そのよってきたる原因が煩悩に障えられた無知にあることを明らかにし、しかも、その無知無明こそ人間の本能的愛欲に支配されるものであるから、ただの思想や観念的覚悟では転換のはかれるものてはないと、日々の身体的努力を八正道として説かれたのであった。これこそ構造的に説かれた縁起の実践といえるであろう。孤立しては生きられない人生を、他との共存の中に生きられたのである。

  • qtmanをātmanに変更。