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より出でたり

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御開山は願名を挙げるとき、真実の願と方便の願では表現を使い分けておられた。 真実の行・信・証・還相の出願をされる場合は「出於(より出でたり)」とされておられた。

第十七願(行)
然斯行者 出於大悲願。
しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり。(行巻 P.141)
第十八願(信)
斯心即是 出於念仏往生之願。
この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり。(信巻 P.211)
第十一願(証)
即是 出於必至滅度之願。
すなはちこれ必至滅度の願(第十一願)より出でたり。(証巻 P.307)
第二十二(還相)
則是 出於必至補処之願。
すなはちこれ必至補処の願(第二十二願)より出でたり。(証巻 P.313)

それに対して第十九願、第二十願の方便の願を挙げられる場合は、「既而有悲願(すでにして悲願います)」とされておられた。大悲の大を略して悲願とされておられる。

第十九願
既而有悲願。名修諸功徳之願。
すでにして悲願います。修諸功徳の願(第十九願)と名づく。(化巻 P.375)
第二十願
既而有悲願。名植諸徳本之願。
すでにして悲願います。植諸徳本の願(第二十願)と名づく。(化巻 P.400)

真実の願を「出於(より出でたり)」とされた場合は、阿弥陀仏から回向された躍動的な本願力回向の法(随自意)であることをあらわすためだったとされる。それに対して諸行往生(第十九願)や自力念仏(第二十願)の法は、自らが行じていく自力の法門であるから、阿弥陀仏から回向された法ではない。いわば不本意の願(随他意説)であるから、阿弥陀仏から回向された法ではないということを示す為に「既而有悲願(すでにして悲願います)」とされたのであった。なお、第十七願では大悲の願とされ方便の願では大を省いて悲願とされておられた。

なお、真仏土巻では、第十二・十三願を、

既而有願 即光明・寿命之願是也。
すでにして願います、すなはち光明・寿命の願(第十二・十三願)これなり。(真巻 P.337)

と「既而有願(すでにして願います)」とあるのは、回向法の根拠を示すものといわれる。
『教行証文類』は、「教」→「行」→「信」→「証」→「真仏土」と「往生門(趣入門)」となっているが、和語の聖典といわれる『三帖和讃』では「真仏土」→「教」→「行」→「信」→「証」といふ円環構造になっている。これを「正覚門(摂化門)」といふ。

六三法門
トーク:より出でたり 往生門正覚門
随自意説
随他意説
随自他意説