苦
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く
身心が責め悩まされている状態をいう。一般に、
- 生(しょう)
- 老(ろう)
- 病(びょう)
- 死(し)
を
- 愛別離苦(あいべつりく)(愛するものと別れるという苦しみ)
- 怨憎会苦(おんぞうえく)(怨み、憎む人に会う苦しみ)
- 求不得苦(ぐふとくく)(求めても得られない苦しみ)
- 五蘊盛苦(ごうんじょうく)(五蘊から生ずる身心の苦しみをいう)
を加えて八苦(はっく)という。
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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く 苦
身心が責め悩まされている状態をいう。一般に、生・老・病・死を四苦とし、さらに
- 「八苦のなかに生苦・老苦・病苦・死苦・愛別苦を取りて、 これを五苦と名づく。さらに三苦を加ふればすなはち八苦となる」(七註 393)
とあり、生・老・病・死・愛別離苦を五苦、怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦を三苦とする。(浄土真宗辞典)
武内義範師は、著『親鸞と現代』の「苦への洞察」で、
- 四諦は苦集滅道(くじゆう-めつどう)というこの四つの真理で、原始仏教ではそれを知らないということが、この真理に対する無知が、すなわち無明だといわれている。四つの真理のうちでまず苦ということが一番初めに出てきているが、この苦ということの意味が現代人にとっては、その理解が非常にむつかしいものとなってしまっている。というのは、われわれは苦ということの意味を本当に理解しえないような時代に生きているからである。われわれにとっては快楽とか幸福とかということが、われわれの生の自明の目的とか第一の原理になっていて、苦というものの示す真理ということを深くきわめて自省するということはなくなってきている。しかし原始仏教では生老病死(四苦)、それから(五)愛するものと別れねばならない(愛別離苦)、(六)憎むものと会わなければならない(怨僧会苦)、(七)欲求するものがつねに得られない(求不得苦)と、(八)世界内存在としての人間の取着性が苦の根源である(略説五取薀苦)というもので四苦・八苦が示されている。最後のものは、さきの顕著な苦の事例に対して、全体の総括をなしている。 (無明と業─親鸞と現代)
と、「この苦ということの意味が現代人にとっては、その理解が非常にむつかしいものとなってしまっている」云々とされているのだが、我々は、煩悩の背後にある無明を見つめる力が劣ってきているのかも知れないと思ふ。それは、必ず来る厳然たる死の前で、自我としての「存在の不安」について考察したこともない現代人の宗教的無知であった。