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寺檀制度

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2024年9月19日 (木) 05:51時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

じだん-せいど 寺檀制度

 江戸時代に制度化された寺院と檀家との関係のこと。檀家制度などともいう。江戸幕府は、すべての人々を特定の寺院に檀家として所属させる制度を整え、檀家がキリスト教など禁制宗旨の信者ではないことを寺院に証明させた。そのことを定期的に確認することを宗門改(しゅうもん-あらため)といい、その証明を寺が担ったことを寺請(てらうけ)という。宗門改を記録した宗門改帳は戸籍として機能し、檀家が婚姻や旅行などをする際には寺院から身元保証となる寺請証文を受ける必要があった。寺院が檀家の信仰を監視し、檀家には寺院への参拝や年忌法要などの勤修(ごんしゅ)が義務づけられた。これにより幕府は寺院を通して民衆を統制し、寺院は檀家を固定的に確保した。こうした幕府の政策により寺院は安定して運営されるようになり、教学研究が隆盛した一方で、寺院が檀家を支配する傾向が強く、堕落した僧侶を生み、また寺院と檀家との関係を信仰上の関係から形式的関係へと変化させる要因にもなった。本末制度。(浄土真宗辞典)

 仏教歴史学者であった千葉 乗隆師の講録『浄土真宗と北陸門徒』には、元和九(1623)年にはおよそ千ヶ寺ぐらいだった真宗寺院数が、元禄七(1694)年には、八千三百五十九寺にのぼったとされる。この急激な寺の増加は1637年に起きた、百姓[1]やキリスト教徒を主体とする「島原の乱」に驚いた幕府が、外国勢力(キリスト教を尖兵として送り込み民衆をてなずけ植民地を獲得する西欧の侵略主義)と結託したキリスト教徒の体制転覆を恐れキリスト教弾圧を意図した宗門改(しゅうもん-あらため)がその遠因であろう。この頃から鎖国制度が強化される。1671年(寛文11)に従来行われていた宗門改めを、人別帳を利用して行うように幕府が指令したことにより、宗門人別改帳作成が制度化されて寺檀関係が制度として成立したからである。これは戸籍として機能し全国民はどこかの寺に属しなければならなくなったことから真宗寺院の爆増となった。これは全国にあった「道場」の寺院化であり、それに伴う聖道門の荘厳を真似た須弥壇上に阿弥陀如来の木造を据える形式になったのであろう。
元々、ユダヤ教やキリスト教(カソリックを除く)イスラム教では神を具象化することを偶像崇拝として否定してきた。 その意味において、なんまんだぶといふ口に称えられる名号を文字として「尊号」や「真像」と示して下さった御開山は偶像崇拝を超えておられるのであった。→垂名示形

『浄土真宗と北陸門徒』

 真宗の寺院を調査しますと、たいていの寺院は蓮如上人なり親鸞聖人にまでその創立を結びつける場合が多くみられます。しかしその実態は真宗寺院のだいたい90%以上は江戸時代のはじめに寺が出来上がったといえます。真宗寺院の数の移り変わりを見て参りますと、南北朝時代の文安六(1449)年の時点ではだいたい二十二ヶ寺ほどです。
 それから百年ほどたちまして戦国時代の天文二十四(1555)年には二百五十ヶ寺ほど、それからまた七~八十年ほどたちまして、江戸時代のごくはじめの元和九(1623)年にはおよそ千ヶ寺ぐらいです。
 これが七十年後の元禄七(1694)年には西本願寺だけで八千三百五十九となります。(林遊の追記:1637年にキリスト教徒を中心に島原の乱)だいたい東もほぼこれに近い数字でございますので、両方合わせますと一万五千~六千になります。
それから安政元(1854)年には西本願寺だけで一万六百六十九ヶ寺です。寛永年間から寛文年間にかけまして、本末制度という寺院の上下関係を定める法令が発布されました。それを契機にしまして道場の寺院化がなされます。

 もう一つは寛文年間(1661-1673)に檀家制が設けられます。これは日本全国民が必ずどこかの仏教寺院に所属をしなければいけないという制度です。そうしますと全国民を登録する、寺が必要になってくるわけです。それで各村々に寺が一挙に出来上がってくるのです。こういうふうな檀家制度と本末制度の整備により寺が急増します。➡(2)道場と毛坊主


本末制度
寺院
檀家
檀越
檀度
布施

  1. 百姓。百姓とは百の姓をもつ者と云ふ意味で天下万民を指す語であった。農業に従事する者のみならず、商業や手工業、漁業などの経営者も包括していた。しかし士農工商といふ身分制度がとなえらる事によって百姓といふ言葉はもっぱら農業従事者を指す言葉として使われるようになった。ここでの百姓といふ意味は農業従事者だけを指す意味ではなく、あらゆる階層といふ意味である。