疑無明
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ぎ-むみょう
浄土真宗では、仏教で一般にいわれている真如法性に背反する愚痴を痴無明とし、本願を疑うことを疑無明として、無明を二種に考察する。真如法性に背くことも、真如の顕現である本願に背くことも、どちらも人間の虚妄分別を基礎としているので本質的には同じとされる。そして、根本無明である痴無明(根本無明)は死ぬまで無くならないが、疑無明は阿弥陀仏の選択本願を信受した時(一念)に止み、往生成仏が決定であるから、もはや生死に惑うことはないとする。まさに「信心の定まるとき往生また定まるなり」であった。(御消息 P.735)
一部の宗学者はこの「痴無明説」に批判的なのだが、御開山が「正信念仏偈」の、
摂取心光常照護 已能雖破無明闇
貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天
摂取の心光、つねに照護したまふ。すでによく無明の闇を破すといへども、貪愛・瞋憎の雲霧、つねに真実信心の天に覆へり。たとへば日光の雲霧に覆はるれども、雲霧の下あきらかにして闇なきがごとし。(行巻 P.204)
の文を自ら『尊号真像銘文』で釈して、
- 「摂取心光常照護」といふは、信心をえたる人をば、無礙光仏の心光つねに照らし護りたまふゆゑに、無明の闇はれ、生死のながき夜すでに暁になりぬとしるべしとなり。「已能雖破無明闇」といふは、このこころなり、信心をうれば暁になるがごとしとしるべし。「貪愛瞋憎之雲霧常覆真実信心天」といふは、われらが貪愛・瞋憎を雲・霧にたとへて、つねに信心の天に覆へるなりとしるべし。「譬如日月覆雲霧雲霧之下明無闇」といふは、日月の、雲・霧に覆はるれども、闇はれて雲・霧の下あきらかなるがごとく、貪愛・瞋憎の雲・霧に信心は覆はるれども、往生にさはりあるべからずとしるべしとなり。(尊号 P.672)
との「無明の闇はれ、生死のながき夜すでに暁になりぬとしるべしとなり」の語から御開山は無明に二義をみておられたことが解かる。