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日蓮

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にちれん

にちれん 日蓮 (1222-1282)

 鎌倉時代の僧。日蓮宗の開祖。安房国東条郷小湊 (現在の千葉県鴨川市) の人。12歳の時に清澄寺で出家して是生房蓮長と名乗り比叡山をはじめ各地で仏道を求めた。32歳の時、『法華経』こそが成仏の道であるとして題目の開教を宣言し、名を日蓮と改めたといわれる。主に鎌倉で布教をし、『法華経』信仰の重要性を強調して、念仏・禅・真言・律の諸宗を批判し、国土の安穏を乱すものとして、特に法然の専修念仏の禁止を鎌倉幕府に進言した。こうした姿勢は幕府や諸宗の反発を招き、弘長元年 (1261) には伊豆国(現在の静岡県東部)、文永9年 (1272) には佐渡国(現在の新潟県佐渡市)へ流罪となった。文永11年許されて鎌倉へ帰り、晩年は弟子の指導につとめた。著書に『立正安国論』『¬開眼抄』『観心本願抄』などがある。(浄土真宗辞典)

日蓮は四箇格言(しかかくげん) としては、真言亡国(しんごんぼうこく)、禅天魔(ぜんてんま)、念仏無間(ねんぶつむげん)、律国賊(りつこくぞく)と余宗を非難した。特に釈尊よりも弥陀一仏を重視する浄土教への攻撃は熾烈であった。
地代は下がるが、山科本願寺は、天文元年(1532)、細川晴元の意を受けた六角定頼と日蓮宗徒に攻められて焼失させられた。