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華報

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けほう

 果報にさきがけてあらわれる報い。(信巻 P.267)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

華が咲いて果実が出来るから「華」を果にさきがける(間接原因)といふ。
ここでは、身体に瘡を生じたことを華にたとえ、「いまこの身にすでに華報を受けたり、地獄の果報、まさに近づきて遠からずとす」と、地獄の果に先立つ因といふ。


この華を縁とし果実を華とする縁と果の譬えを、源信僧都は天台大師撰述といわれる『淨土十疑論』を引いて、

知りぬべし、念仏・修善を業因となし、往生極楽を華報となし、証大菩提を果報となし、利益衆生を本懐となす。たとへば、世間に木を植うれば華を開き、華によりて菓を結び、菓を得て餐受するがごとし。 (要集 P.930)

と、縁に縁(よ)りて往生の果を生じ、その果が仏果を得て衆生済度することが仏道の正意であるといわれていわれていた。

縁起