怖畏
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ふい
おそれること。(真巻 P.343)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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畏怖心 の去らぬ者
怖も畏もおそれるという意。→怖、→畏
凡夫の定義の一つに「
仏法の真理をさとらない凡夫は、
不活畏 (活命畏。このままで生きていけるだろうか、という生活上の不安におののく畏れ)。死畏 (命終畏。仏教では死苦といい、自己の死に対する根源的な畏れ)。悪名畏 (悪名畏。誰かに悪口を言われていないか、自己の名誉(プライド)が損なわれるのではないかという不安の畏れ)。悪趣畏 (悪道畏。地獄などの悪趣に堕ちるのではないかという不安の畏れ)。衆威徳畏 (怯衆畏。自信がなくて大衆の前に出るのを畏れること)。
の、五怖畏の状態にある。
浄土真宗では、このような五怖畏を法蔵菩薩の発願でもある「讃仏偈」では
と、四十八願に先立って誓願されておられる。この願が成就したことを十方無量の諸仏が証誠し、なんまんだぶと称え聞くことを勧めるのである。たとえ自己が妄想しこしらえた畏怖心は消えなくても、その本体はすでに大願業力によって無化されているのであった。なんまんだぶを称えることは、不安の中にありながら、その不安に本願を感じ安心できる境地がめぐまれるのである。この道の先達は「みだの本願、南無阿弥陀仏ができてから、われが案ずることはない」[1]といわれていた。
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- あさましや さいちこころは あさましや
- 妄念が いちどに出るぞ にがにがしい
- 悪のまぜりた 火がもゑる
- 悪のまぜりた 波がたつ あさましや
- 愚痴のまぜりた 火がもゑる
- 邪慳もの あさましや
- とどめられんか さいちがこころ
- くよくよと起こる心を たする(たずねて)みれば
- 天にのり(乗り)こす さいちのこころ
- ここに知識の 御化導あり
- 「これさいち ここがそなたの 聞き場ぞよ。」
- 「ありがとうござります。」
- 「みだの本願 なむあみだぶが できてから、
- われが案ずることは ない。
- きけよ きけよ なむあみだぶを
- ききぬれば われが 往生これにある
- なむあみだぶつわ われがもの。」(浅原 才市)『妙好人』鈴木大拙 p.109