いのり
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いのり
いのり
神仏などの聖なるものと人間との内面的なまじわりを意味し、仏教においても仏・菩薩・天神地祇などに向かって利益を求め、救いを願う意で用いられる。しかし、親鸞は『高僧和讃』に
と示し、現世の利益を求めて念仏することを否定している。なお、『御消息』第25通には
- 「それにつけても念仏をふかくたのみて、世のいのりにこころをいれて、申しあはせたまふべしとぞおぼえ候ふ」 (註 784)、
第43通には
- 「念仏そしらんひとびと、この世・のちの世までのことを、いのりあわせたまふべく候ふ」 (註 808)、
とあり、本願に出遇った上で世の中が安穏であってほしいと願う意で 「いのり」 の語が用いられている。(浄土真宗辞典)
◆ 参照読み込み (transclusion) JDS:祈り
いのり/祈り
仏や神などに対して請い願うこと。祈りという行為には、祈る人・祈りの対象(神などの絶対者)・祈る内容の実現(効果)という三要素が必要である。つまり、人が神などの絶対者に祈りを捧げ、その絶対者が祈りの内容を実現させるという構図を持つ。しかし、本来仏教は神などの人格的絶対者を認めず、修行によって真理に目覚めることを目指すので、キリスト教のように、そのような絶対者に対する「祈り」は、少なくとも初期仏教の出家者レベルにおいては存在しなかったが、ブッダ入滅後に建立された仏塔は祈りの対象として機能し、仏塔供養の果報が祈りと結びつくことになる。また大乗仏教が興起し、阿弥陀仏などの仏や観世音などの菩薩が信仰の対象として位置づけられるようになると、仏教における祈りの側面はさらに強まる。たとえば、『法華経』普門品に説かれるように、厄難にあって観世音菩薩に救いを求める行為や、阿弥陀仏に対して極楽往生を願う念仏は明らかに「祈り」に相応しい行為といえよう。よって、浄土教において祈りといえば、まずは「極楽往生を願っての阿弥陀仏への祈り」ということになる。ただし、実際には浄土教文献の中に「往生を願って阿弥陀仏に祈る」という表現が頻出するわけではない。中国浄土教においては、そもそも「祈り」という表現自体があまり見られず、日本においても比較的よく用いられるのは「臨終正念を祈る」および「現当二世(の安楽)を祈る」という表現である。一方、法然においては、基本的に臨終正念や現世での安楽を祈ることさえない。念仏往生を願う(祈る)のみといえる。これは聖光・良忠もほぼ同じ立場であり、特に真宗は伝統的に念仏による祈りを極力避ける傾向にある。しかし、江戸期になると、浄土宗などにおいても、長寿・除病・招福・求子・安産などの現世利益を求めての「祈禱念仏」が盛んになってくる。もちろん、これに反対する僧侶も少なくなかったが、その者たちでも「宝祚延長」の祈りについては認めていた。そこには近世江戸期の「祈り」の特色が窺える。
【参考】岸本英夫『宗教学』(大明堂、一九六一)、日本仏教学会編『仏教における祈りの問題』(平楽寺書店、二〇〇五)
【執筆者:平岡聡・安達俊英】