領解
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りょうげ
もともと領納解了の意味で、如来の勅命を受け取り、勅命の通りその道理を理解して身につけることをいう。
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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領解は古くは改悔といわれ、自力を悔い改めて他力にまかせることであった。『山科御坊事幷其時代事』p.940に、
- さて聽聞に望なる人は縁々に五人三人、後に佛前に
被出 候間、人多みえ候時も百人とも候はず候、五六十、七八十人が多勢の分にて候間、坊主衆計 一人づゝ改悔せられ、一心のとおり心しづかに被申 、惣の衆五人か十人か後、終に被申 間、殊勝なる改悔にてたふとく候つる。聴聞の衆も耳によく入候き。談合は五時まで、果候て日沒はあり。七日の間かくのごとし。廿八日には如常 日沒あり。(浄土真宗聖典全書 五 p.940)
とある。
『安心決定鈔』に、
- 阿弥陀仏は凡夫の願行を名に成ぜしゆゑを口業にあらはすを、南無阿弥陀仏といふ。かるがゆゑに領解も機にはとどまらず、領解すれば仏願の体にかへる。 名号も機にはとどまらず、となふればやがて弘願にかへる。かるがゆゑに浄土の法門は、第十八の願をよくよくこころうるほかにはなきなり。(安心決定 P.1387)
と「領解も機にはとどまらず」とあるので領解も固定化するものではない。それは本願力回向のご法義であるから、領解も機にはとどまらず、である。
ご法義の先人は、仏智ふかきがゆえに我が領解をあさしとす、と云われていた。