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行門・観門・弘願

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ぎょうもん・かんもん・ぐがん

証空は『観無量寿経』の理解において、行門・観門・弘願により浄土教信仰に帰入する経緯について統括している。この立場は主に証空の『観経疏自筆御鈔』にみられる。
ここで行門とは自力修行門であり諸経に説かれる。
観門とは観経十六観門であり『観無量寿経』正宗分に説かれる。
弘願とは広弘誓願であり『無量寿経』に説かれる本願である。
{以下略}(證空辞典)

◆ 参照読み込み (transclusion) JDS:行門・観門・弘願門

ぎょうもん・かんもん・ぐがんもん/行門・観門・弘願門

証空善導の著書を注釈する際に用いた名目(術語)。特に『観門要義鈔』『観経疏大意』等の初期の著書に用いている。行門とは自力修行の法門のことである。釈尊一代に説く大小乗の諸経は自力修行によって仏果を期する教えである。しかし、煩悩具足凡夫はこの行門を成就することはできない。行門はただ凡夫に対して観門へと機を調え導く異方便としてのみ意義をもつ。観門とは『観経』に説かれる定散二善十六観の法門のことである。いわゆる観門自力修行の法門ではなく、弘願を能詮する教えであり、観門弘願を領納する手立てである。さらには観門弘願不二一体の開会の関係ともなる。弘願とは阿弥陀仏本願力のことであり、凡夫はこの弘願により救済されるのである。この名目の関係は弘願により観門が開かれ、さらに行門が開設されるという教法の施設の立場がある。また、行門を離れて観門より弘願門に帰するという機の入信の立場がある。証空はこの両面から阿弥陀仏による凡夫救済の原理を明かしている。


【参考】上田良準・大橋俊雄『浄土仏教の思想』一一(講談社、一九九二)


【執筆者:中西随功】