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十三文例

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以下の十三文例とは、「化巻」p.382で顕彰隠密の義をあらわす例として十三文を釈しておられることを指す。

教我観於清浄業処」といへり。「清浄業処」といふは、すなはちこれ本願成就の報土なり。

教我観於清浄業処(われに教へて清浄業処を観ぜしめたまへ)。煩悩が一点も雑わらない法蔵菩薩の清浄な業によって完成された処(浄らかな土=浄土)ということ。経の当面及び善導大師の解釈では、行者の清浄なる業によって感得せられる世界のことである。これは「序分義」欣浄縁p.375の「まさしく夫人通じて去行を請ずることを明かす。これ夫人上にはすなはち通じて生処を請じ、いままた通じて得生の行を請ずることを明かす」の文から判る。御開山は『観経』の教説に隠顕を見られるのだが、『智度論』の「義に依りて語に依らざるべし」の精神での釈である。まさに本願力回向の信心の智慧によって読み解かれた世界ではある。

教我思惟」といふは、すなはち方便なり。

教我思惟(われに思惟を教へたまへ)。「玄義分」p.308の「思惟といふはすなはちこれ観の前方便なり。」という文に拠られて思惟は方便とされた。善導大師の当面の釈によれば「教我思惟といふは、すなはちこれ定の前方便、かの国の依正二報・四種の荘厳を思想し憶念するなり」とあるように、思惟は正受を実現する為の前方便(手段)であるが、御開山は思惟は方便であるとされた。次下の正受とは本願力回向の、信心であるということをあらわす為である。

教我正受」といふは、すなはち金剛の真心なり。

教我正受(われに正受を教へたまへ)
「帰三宝偈」「玄義分」p.297の、
  世尊我一心 帰命尽十方
  法性真如海 報化等諸仏
  {中略}
  妙覚及等覚 正受金剛心
  相応一念後 果徳涅槃者
(世尊、われ一心に尽十方の法性真如海と、報化等の諸仏と{中略}妙覚および等覚の、まさしく金剛心を受け(正受金剛心)、相応する一念の後、果徳涅槃のものに帰命したてまつる)
の文から、正受とは如来回向の金剛心(金剛の真心)を正受することであるとされた。自力の行者であるならば、金剛の心を起こしてであるが、正受とは阿弥陀如来の願心を正受することであるとされたのである。まさに本願力回向の行信であることを釈されるのではあった。
そして観経の説かれた意義を、「またこの『経』(観経)に真実あり。これすなはち金剛の真心を開きて、摂取不捨を顕さんと欲す。しかれば濁世能化の釈迦善逝、至心信楽の願心を宣説したまふ。報土の真因は信楽を正とするがゆゑなり。」「化巻」p.393と、金剛の真心(信楽)と念仏衆生摂取不捨(摂取不捨)を顕すためであるとされた。『観経』とは本願力回向の金剛の信心を正受することと摂取不捨をあらわす経典であったのである。「正信念仏偈」で「行者正受金剛心」と讃嘆される所以である。なお金剛とは、無漏の体とする。「信巻」p.245

諦観彼国浄業成者」といへり、本願成就の尽十方無碍光如来を観知すべしとなり。

諦観彼国浄業成者(あきらかにかの国の浄業成じたまへるひとを観ずべし)。この場合の「観」とは観経でいう観相ではなく、憶念であるとされる。これは『一念多念証文』で『浄土論』の「観仏本願力」の観を「観は願力をこころにうかべみると申す、またしるといふこころなり」(『一念多念証文』p.691)とされておられることから判る。観知とはいわゆる憶念(信心)とされるのである。

広説衆譬」といへり、すなはち十三観これなり。

広説衆譬(広くもろもろの譬へを説く)。すなわち定善十三観は譬えであり真実の義ではないとする。仏教では譬喩について種々論じられるが、ここでは、他の物と事を借りて仮に表現することであり真実そのものではないという意。この道の聴聞のベテランは、法話中の譬喩を「譬えは一分」といって、譬えは全体像の極一部を仮に表現したものにすぎないのであるから譬喩に囚われてはいけないと注意されていた。

汝是凡夫心想羸劣」といへり、すなはちこれ悪人往生の機たることを彰すなり。

汝是凡夫心想羸劣(なんぢはこれ凡夫なり。心想羸劣なり)。御開山は文面上に明らかに現れていることを「顕」とし、文面上には見えないが義としてある場合は「彰」とされた。ここでは、凡夫を指して、機であると「彰す」であるから経文の上には見えないが義として悪人が往生の機の意味があるということ。悪人正機という言い方はされておられないことに注意。

諸仏如来有異方便。すなはちこれ定散諸善は方便の教たることを顕すなり。

『観経』で顕に説かれる定散や諸善は権仮方便であるとされる。そして、経文の上に「諸仏如来有異方便」と方便であると顕かに現れているので「顕す」とされた。

以仏力故見彼国土」といへり、これすなはち他力の意を顕すなり。

韋提希夫人は釈尊の仏力によって浄土を見せしめられたのであるから仏力とは他力を顕すのであるとする。仏が他である韋提希夫人に浄土を見せしめたのであるから、他力の他は韋提希夫人である。

若仏滅後諸衆生等」といへり、すなはちこれ未来の衆生、往生の正機たることを顕すなり。

韋提希夫人が、「もし仏滅後のもろもろの衆生等、濁悪不善にして五苦に逼められん。いかんしてか、まさに阿弥陀仏の極楽世界を見たてまつるべき」でしょうか、と問われたことは未来の衆生の為であり、そして阿弥陀如来の正機(正しき目当て)であるとする。韋提希夫人の為に説かれた『観経」であるが、この文によってあらゆる未来の衆生(これを読んでいるあなた)の為に説かれた教典であるとされる。ここでも韋提希夫人を凡夫であると同時に権化の仁(総序)とされるのであろう。

八つの池ではなく次下の八功徳水で満たされた池のこと。

若有合者名為粗想」といへり、これ定観成じがたきことを顕すなり。

『観経疏』「華座観釈」p.424に、もし定と合することがなければ「たとひ千年の寿を尽せども、法眼いまだかつて開けず」とある。ここでは、「若有合者 名為麁想」(もし合することあるをば、名づけて粗想)であるとする。たとえ経と合することがあっても麁想に極楽世界を見ただけであるとし、いかに定善が成じ難いかを顕す文とされる。

於現身中得念仏三昧」といへり、すなはちこれ定観成就の益は、念仏三昧を獲るをもつて観の益とすることを顕す。すなはち観門をもつて方便の教とせるなり。

定観成就の「真身観」の直前で、「於現身中得念仏三昧」と説かれているのは、定観が成就して得られる利益は念仏三昧であるされる。この念仏三昧は『観経』の当面では観仏三昧のことである。三昧とはサマーディ(samādhi)の音写で、精神を統一し安定させることであるから三昧といわれるのであり観想の観仏三昧のことである。しかし、法然聖人は「いまこの『観経』はすなはち観仏三昧をもつて宗となし、また念仏三昧をもつて宗となす」の文を、観仏と口称の念仏(なんまんだぶ)を説く意であるとされた。それは『観経疏』の流通分に「仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり」とある文から『観経』を逆観されたからであった。
それを承けられた御開山は、この定観(真身観)が成就すれば阿弥陀仏の真身が見える。真身が見えたら「一一光明 遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨」(一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず)という「念仏衆生摂取不捨」ということが判る。この念仏とは善導大師によれば称名(なんまんだぶ)である。そうすると定観成就の益とは、称名念仏している者が摂取されているという事が判ることである。すると定観は必要ではなかったという事が判り、実は定観は不必要であるということが定観の益であるということになる。このことを「定観成就の益は、念仏三昧を獲るをもつて観の益とする」とされたのである。
このような見方は善導大師が、『観経』の結論である「流通分」で「なんぢ、よくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり」とされたことや、「玄義分」p.305で「いまこの『観経』はすなはち観仏三昧をもつて宗となし、また念仏三昧をもつて宗となす」と、一経に観仏三昧の法と念仏三昧の法が説かれているとされていたことに示唆されたのであろう。念仏が称名であることは、善導大師が、この「真身観」中の以下の釈で判る。
「自余の衆行はこれ善と名づくといへども、もし念仏に比ぶれば、まつたく比校にあらず。このゆゑに諸経のなかに処々に広く念仏の功能を讃めたり。『無量寿経』の四十八願のなかのごときは、ただもつぱら弥陀の名号を念じて生ずることを得と明かす。また『弥陀経』のなかのごときは、一日七日もつぱら弥陀の名号を念じて生ずることを得と。また十方恒沙の諸仏の証誠虚しからずと。またこの『経』(観経)の定散の文のなかに、ただもつぱら名号を念じて生ずることを得と標せり。この例一にあらず。広く念仏三昧を顕しをはりぬ」(定善義 P.437)
名号を念じるのであるから明らかに称名念仏のことである。御開山は『観経』の教説に真仮を見られ、「またこの『経』(観経)に真実あり。これすなはち金剛の真心を開きて、摂取不捨を顕さんと欲す。」(化巻 P.393と、『観経』の真実義は、無量寿仏が念仏す者を摂取不捨されることであるとされるのであった。念仏衆生摂取不捨ということは常人にはほぼ不可能な定善観が完成して初めて判ることなのだが、我々はこれを七祖の伝統の上で、御開山からお聞きするのである。これを見聞一致といい、聞くことは見(知ること)であり信知であり、これを聞見というのである。なお、聞見という言葉は「真仏土巻」で「もし観察して知ることを得んと欲はば、二つの因縁あり。一つには眼見、二つには聞見なり」とある。

発三種心即便往生」といへり。 また「復有三種衆生当得往生」といへり。これらの文によるに、三輩について三種の三心あり、また二種の往生あり。

上輩・中輩・下輩の三種類の人について、それぞれ定善の自力の三心・散善の自力の三心・弘願他力の三心があるとされる。これは「化巻」P.392で方便の願(第十九願)を考察して、 「また二種の三心あり。また二種の往生あり。二種の三心とは、一つには定の三心、二つには散の三心なり。定散の心はすなはち自利各別の心なり。二種の往生とは、一つには即往生、二つには便往生なり。便往生とはすなはちこれ胎生辺地、双樹林下の往生なり。即往生とはすなはちこれ報土化生なり。」と、定善の三心と散善の三心の二種に分けておられることから判る。二種の往生とは、即便往生という言葉を即と便に分けて、『大経』による往生を即往生とし、『観経』による往生を便往生とされる。即を即得往生の意とし、便を方便の便とみられた。便にはかたわらにという意味があるからであろう。また『愚禿鈔下』p.541で「また「即往生」とは、これすなはち難思議往生、真の報土なり。「便往生」とは、すなはちこれ諸機各別の業因果成の土なり、胎宮・辺地・懈慢界、双樹林下往生なり、また難思往生なりと、知るべし」とある。
 まことに知んぬ、これいましこの『経』(観経)に顕彰隠密の義あることを。二経(大経・観経)の三心、まさに一異を談ぜんとす、よく思量すべきなり。『大経』・『観経』、顕の義によれば異なり、彰の義によれば一なり、知るべし。