真仮論の救済論的意義
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『顕浄土方便化身土文類』梯 實圓著より抜書き
自業自得の救済論
阿弥陀仏の本願のなかに真実と方便を分判し、浄土三部経にも真実教と方便教があるといわれた親鸞聖人は、そのように真仮を分判しなければならないのは「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」(*)るからであるといわれていた。逆にいえば、真仮を分判することによって、はじめて如来の救いの真相が明らかになるというのであった。その意味で真仮論は、聖人の救済論の根幹にかかわることがらだったのである。
真仮論とは、浄土教を、さらに広くいえば仏教を、二つのタイブの救済観に分けることであった。 第一は、自業自得の因果論に立った救済観であり、それは論功行賞的な発想による救済観であった。第二は、大悲の必然として救いが恵まれるとする自然法爾の救済観であって、それは医療に似た救済観であった。自業自得の因果論に立脚した救済観というのは「誡疑讃」に
- 自力諸善のひとはみな
- 仏智の不思議をうたがへば
- 自業自得の道理にて
- 七宝の獄にぞいりにける
といわれているような、自力の行信因果をもって救済を考えていく思想をいう。 それは浄土教というよりも、むしろ仏教に一般的に共通した思考形態であったといえよう。有名な七仏通戒の偈とよばれる詩句がある。
- 諸悪莫作 (もろもろの悪は作すことなかれ)
- 衆善奉行 (もろもろの善は奉行せよ)
- 自浄其意 (自らその意を浄くす)
- 是諸仏教 (これ諸仏の教えなり)
というのである。悪を廃して善を行じ、無明煩悩を断じて、自心を浄化し、安らかな涅槃の境地に至ることを教えるのが、すべての仏陀の教えであるというのである。
このように廃悪修善によって涅槃の果徳を実現しようとする自業自得の修道の因果論が、七仏通戒といわれるように、仏教理解の基本的な枠組みであった。このような自業自得の因果論の延長線上に浄土教の救済を見るのが第一の立場であった。
法然聖人を論難した『興福寺奏状』の第六「浄土に暗き失」によれば、諸行往生を認めない法然は『観経』等の浄土経典や、曇鸞、道綽、善導にも背く妄説をもって人々を誤るものであるといっている。すなわち『観経』には、三福九品の諸行による凡聖の往生が説かれているが、彼等が往生するとき、仏はその先世の徳行の高下に応じて上々から下々に至る九品の階級を授けられていく、それが自業自得の道理の必然だからである。
たとえば帝王が天に代わって官を授くるのに賢愚の品に随い、功績に応ずるようなものである。しかるに専修のものは、下々の悪人が、上々の賢善者と倶に生ずるように主張しているが、「偏へに仏力を憑みて涯分を測らざる、是れ則ち愚痴の過」を犯していると非難している。
これは明らかに自業自得、廃悪修善の因果論をもって、法然教学を批判しているもので、『興福寺奏状』の起草者、解脱上人貞慶からみれば法然聖人の浄土教は、仏教の基本的な枠をはみ出した異端でしかなかったのである。
たしかに『観経』の九品段には、上々から下々に至るまで、因果を対望して九品の優劣がしめされている。
臨終に来迎された仏は、行者に対して「法子、なんぢ大乗を行じ第一義を解る。このゆゑに、われいま来りてなんぢを迎接す」というふうに、一々生前の業績を評価し、業績に応じて来迎相、果相が説かれているから、まさに論功行賞的に九品の階級が示されているわけである。もちろん実際には、一人一人の行業のちがいに応じてそれぞれが違った来迎相、浄土の果相を行者は感得するから仏から見るならば、無数の差異のある浄土が成立することとなる。もっとも「真仏土文類」に、「すでにもつて真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。ゆゑに知んぬ、報仏土なりといふことを」(*)と言われているように、如来が「大悲」の本願によつて成就された浄土は唯一の真実報土である。しかし自力の行者の機感に応じてそれぞれの行者の感見の前に顕現している浄土は無数にあるといわねばならない。ただ如来は、方便誘引の悲心をもって、行者の自力の機執を強ちに否定せず、一往受け容れて調機誘引されるから方便化身化土が成立するのである。しかしそれらは自力のはからいが無くなり、仏智不思議を領納する信心の智慧が開けた瞬間に消えて、如来が成就された唯一なる真実報土が現成し、往生成仏が実現するわけである。そのような自力の行者の前に顕現する方便化土の有様を「真仏土文類」には、つづいて「まことに仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。これを方便化身・化土となづく」といわれたのであった。
もっとも方便化土といえども、第十八願の廓中の第十九願、第二十願に対応している報土中の化土であるから報土であって、凡夫の自力で往生のできる世界ではない。必ず第十九願力、第二十願力という仏力の加被を得なければ往生はできないわけである。その仏力のあらわれの一つが臨終来迎であった。こうして自業自得の因果を信じて三福諸善を行じたことを因として浄土を願生すれば、如来はその功績に応じて臨終に来迎し、行業の優劣に応じて九品の果徳を与えていくというのが、「観経』に顕説されている救済論であった。
さて『観経』に説かれている諸種の行業を、善導大師は定善と散善に分類された。定善とは「息慮凝心」と定義されているように、心を散らさず一点に凝集させる禅定のことで、浄土、如来の徳相を観想する十三種の行としてとかれているものがそれである。散善とは、散心のままで「廃悪修善」することで、世間の善行である世福、小乗的な戒律を主とした善行である戒福、大乗仏教で勧進される発菩提心を初めとするさまざまな自利、利他の行福、あわせて三福の行を散善といい、それを九種類の行者に分けて広説したのが九品段であった。『観経』は、定善、散善という説き方で、世俗の善までも含めて一切の善行を網羅しているのである。
ところで鎮西義の弁長上人や良忠上人、それに諸行本願義の長西上人などは、称名は本願の行であるから余行よりも勝れてはいるが、散心をもって廃悪修善する行であるから散善中の行福の一つであると位置づけ、自力の行と見られていた。他力というのは如来の本願力であるが、それが念仏と感応して、弱い自力に強大な他力が加わるから救いが成立すると見られていた。それに対して親鸞聖人は、定散二善は、選捨された自力の諸行であって、選取された選択本願の念仏は本願力回向の他力行であると見ていかれた。たとえ弥陀念仏であっても、廃悪修善の心(定散心)をもって行ずる念仏は、自力のはからいによって本願の大悲を見失い、自力回向の行と誤解するという重大な過を犯しているといわれたのであった。そしてこのような定散の諸行を要門、第十九願位、自力念仏を真門、第二十願位の仮門の行と判定されたのであった。そして弘願、第十八願の念仏は、廃悪修善自力行を超えた非行非善の行信であり、非行非善の他力行であるといわれたのである。そのような信論の背景にあるのが、大悲の必然としての救済観であった。なお自業自得の因果を信ずることを、聖人は『大経』にしたがって「罪福を信ずる」ともいわれている。善悪の行為によって苦楽の果を生ずると信ずるからである。そして仏智不思議を疑って罪福を信ずる心を自力心といわれたのであった。
大悲の必然としての救済論
親鸞聖人は、万人の救済を願い立たれた仏心を
- 如来の作願をたづぬれば
- 苦悩の有情をすてずして
- 回向を首としたまひて
- 大悲心をば成就せり 『正像末和讃』p.606
と讃詠されている。大悲とは、すべての有情の痛みを共に痛み、苦悩を共感し、わがこととして、それを除こうと願う心である。また大慈とは、すべての悩めるものに真実の安らぎ(涅槃の楽)を与えようと願う心であった。
このように有情の苦を抜いて、真実の安楽を与えようとする大慈大悲は、自他一如、怨親平等とさとる真実の智慧の自然の流露であった。『観経』に「仏心とは大慈悲これなり」といい、仏心を大慈悲で言い表されているように、浄土教とは大智を全うじた大悲の活動に、阿弥陀如来の如来たる所以を見ようとする仏教であった。
大悲をもって苦悩の衆生と連帯していく阿弥陀如来は、衆生の要請を待たず、大悲の自然として本願の名号を救いの法として選択し、衆生に回向して救済を達成していかれる。その有様が往還二種の回向であった。『正像末和讃』には、
- 南無阿弥陀仏の回向の
- 恩徳広大不思議にて
- 往相回向の利益には
- 還相回向に回入せり 『正像末和讃』p.609
と讃詠されている。如来が悲智の徳のすべてを名号にこめて十方の衆生に回向されるということは、むしろ、如来はみ名となって衆生のうえに顕現してくるというべきであろう。そのみ名は真実の教となり、行となり、信となり、証となって衆生の往相を成就し、また還相をあらしめていくのである。
こうした大悲の自然としての救済活動は、医療行為に似ている。治療は、患者に功績があるから行うのではない。病苦があるからである。薬は褒賞として与えられるものではなく、病苦に共感する医師自らの悲心にうながされて投薬するのである。それゆえ病苦が重ければ重いほど、医者は患者に緊密にかかわっていく。「信文類」に、
- ここをもつて、いま大聖(釈尊)の真説によるに、難化の三機、難治の三病は、大悲の弘誓を憑み、利他の信海に帰すれば、これを矜哀して治す、これを憐憫して療したまふ。たとへば醍醐の妙薬の、一切の病を療するがごとし。濁世の庶類、穢悪の群生、金剛不壊の真心を求念すべし。本願醍醐の妙薬を執持すべきなりと、知るべし。『信文類』p.297
といい、大悲の必然としての救済を医療に喩えられた所以である。このような救済論は、必然的に悪人正機説になっていくことも了解できよう。
聖人はこのような救済論をまた自然(自ずから然らしめる)と呼び、法爾(法則として然らしめる)と仰せられた。それが真実一如の必然の活動であり、法則であるとみていかれたのである。
- 「自然」といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。
- 弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀(仏)とたのませたまひて、むかへんとはからはせたまひたるによりて、行者のよからんともあしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。ちかひのやうは、「無上仏にならしめん」と誓ひたまへるなり。 『御消息』p.768
と言われているのがそれである。人間の善悪によって救いの有無が決るのではない。南無阿弥陀仏とたのませ、迎えようとはからいたまう本願力の自然のはたらきによって決まるのである。私どもは、わたくしのはからいをまじえず、如来の不可思議の御はからいに身をゆだねて、おおせのままに念仏していくとき、是非、善悪を超えてはたらく本願力の自然のはたらきによって、無上仏にならしめられるのである。
こうした如来の自然法爾の救いの前に差別のあるはずがない。「信文類」には、
- 大願清浄の報土には品位階次をいはず、一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証す、ゆゑに横超といふなり。『信文類』p.254
といわれている。自他の隔てを超えて、生仏一如の領域である無上涅槃に至らせようとする本願力回向のはたらく頷域に、九品の階位はない。 無上涅槃は生仏の隔てさえも超えた一如の領域であるからである。自然の真実を知らないということは、行者のはからいによって描き出している九品の浄土を真実と誤解している証拠である。 いいかえれば真仮を知らないということは、本願力回向という自然の道理に気づかず、如来の大悲を迷失していることであった。「大経讃」には、
- 念仏成仏これ真宗
- 万行諸善これ仮門
- 権実真仮をわかずして
- 自然の浄土をえぞしらぬ 『大経和讃』p.569
と讃詠されている。一切の虚妄分別による限定を超えた生仏一如の「自然の浄土」は、本願の念仏を与えて成仏せしめるという願力自然のはたらきによってのみ開かれていく領域である。 それは行者のはからいによって行ずる万行諸善の届く世界ではない。聖道門、要門、真門といった権仮方便の教えと、弘願真実の教えとの違いを明確に信知して、自力のはからいを離れて本願他力に帰する人にのみ無上涅槃といわれる「自然の浄土」は開けていくのである。
自業自得の因果を信じて廃悪修善を行う主体はどこまでも行者であったが、自然法爾の領域にあっては、行も信も真の主体は如来であり本願力である。したがって三願真仮論、すなわち真実と権仮方便の問題は、ただ教学上の意見の違いというようなレベルでの問題ではなく、明らかに主体の転換という回心を迫る厳しい教説だったことが分かる。
聖人が「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」といわれた所以である。