より出でたり
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御開山は願名を挙げるとき、真実の願と方便の願では表現を使い分けておられた。 真実の行・信・証・還相の出願をされる場合は「出於(より出でたり)」とされおられた。
それに対して第十九願、第二十願の方便の願を挙げられる場合は、「既而有悲願(すでにして悲願います)」とされておられた。
真実の願を「出於(より出でたり)」とされた場合は、阿弥陀仏から回向された躍動的な本願力回向の法(随自意)であることをあらわすためだったとされる。それに対して諸行往生(第十九願)や自力念仏(第二十願)の法は、自らが行じていく自力の法門であるから、阿弥陀仏から回向された法ではない。いわば不本意の願(随他意説)であるから、阿弥陀仏から回向された法ではないということを示す為に「既而有悲願(すでにして悲願います)」とされたのであった。なお、第十七願では大悲の願とされ方便の願では悲願とされておられた。
なお、真仏土巻では、第十二・十三願を、
- 既而有願 即光明・寿命之願是也。
- すでにして願います、すなはち光明・寿命の願(第十二・十三願)これなり。(真巻 P.337)
と「既而有願(すでにして願います)」とあるのは、回向法の根拠を示すものといわれる。
『教行証文類』は、「教」→「行」→「信」→「証」→「真仏土」と「往生門(趣入門)」となっているが、和語の聖典といわれる『三帖和讃』では「真仏土」→「教」→「行」→「信」→「証」といふ円環構造になっている。これを「正覚門(摂化門)」といふ。