安楽房
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あんらくぼう
住蓮とともに美声をもって知られ、六時礼讃を修して多くの帰依者を得た。(歎異抄 P.855)
◆ 参照読み込み (transclusion) JDS:遵西
じゅんさい/遵西
—建永二年(一二〇七)二月九日。法然の直弟子、房号は安楽、俗名は中原師広。少外記中原師秀の息子で、大蔵卿高階泰経に仕えたが後に出家した。美声の上に声明音楽の才があったといわれ、住蓮とともに哀調を帯びた六時礼讃を唱え、多くの人々をひきつけて専修念仏をひろめた。建久三年(一一九二)の後白河法皇の追善に、住蓮とともに六時礼讃を修したり、東山霊山寺での別時念仏に加わったりしている。法然が『選択集』を撰述するにあたっては、父師秀の才を受け継いでか、その執筆役を命ぜられるほどであった。しかしそのことに憍慢の心を抱いたとみなした法然は、その役を第三章の途中から真観房感西に交代させている。またこの遵西が鎌倉へ下って弘教した折に、その『選択集』の講説を聴き、石川道遍が金光房を誘って、専修念仏に帰依し、上洛して法然の門に入ったとされる。元久の法難では、法然が門下を戒めて一九〇名が名を連ねた元久元年(一二〇四)の『七箇条制誡』において、門弟としての署名を三〇番目に残している。その後同二年には、住蓮とともに藤原隆信の臨終時の善知識をつとめている。そのころ南都北嶺の念仏者弾圧は鎮まらず、翌三年二月興福寺の五師三綱によって、法然をはじめ、住蓮、成覚房幸西らとともに訴えられ、特に遵西はその諸人の勧進をあおり、法本房行空は一念往生の義を立てたと指弾された。このとき行空は法然に破門されたが、遵西らは直接の科を猶予されたようである。ところが、同年(建永元年)一二月後鳥羽上皇が熊野臨幸の間、遵西は、住蓮と東山鹿ヶ谷で六時礼讃会を営んだ。多くの人々が帰依渇仰する中に、上皇の小御所の女房ら二人の女人(松虫・鈴虫)が出家した。これを知った上皇の怒りに触れ、法然門下への弾圧が強まり、間もなく建永二年二月官人秀能(如願房安蓮)の手によったとされるが、遵西は京都六条河原で斬罪となった。さらに法然は流罪にされた。これが後に建永の法難といわれた。
【資料】東京大学史料編纂所編『大日本史料』四—八・建永元年二月一四日条(『三長記』)、同四—九・承元元年二月一八日条(『明月記』、『皇帝紀抄』、『愚管抄』)、『四十八巻伝』一二、三三(聖典六)
【参考】三田全信『成立史的法然上人諸伝の研究』(平楽寺書店、一九七六)
【執筆者:野村恒道】