大谷本願寺
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おおたにほんがんじ 大谷本願寺
吉水の北辺(現在の京都市東山区)にあった初期の本願寺のこと。鳥部野の北、大谷に納められていた親鸞の遺骨を、文永9年(1272)、吉水の北辺に改葬し、廟堂(現在の崇康院境内にあたる)を建て、親鸞の影像を安置したことに始まる。敷地は親鸞の末娘、覚信尼が寄進し、関東の門弟の承認をうけて、覚信尼の子孫が管理することになった。覚信尼の孫、覚如は廟堂の寺院化を図り、正和元年(1312)、専修寺の額を掲げたが[1]、その後本願寺と改称した。寛正6年(1465)、延暦寺の衆徒によって堂舎が破却(寛正の法難)されるまで、この地に本願寺の寺基があった。(浄土真宗辞典)
- ↑ 専修寺とは専修念仏を意味するので叡山関係から横やりが入り本願寺とした。なおこの時の額を高田門徒が譲り受け専修寺と称したといふ。