如来とひとし
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如来とひとし 如来と等し 与諸如来等
御開山は「信巻」信楽釈で『華厳経』入法界品の結論である偈を引文されて、
と、真実信心の徳を「もろもろの如来と等し」とされておられる。御消息では、門弟の問いに答えて、
- これは『経』の文なり。『華厳経』にのたまはく、「信心歓喜者与諸如来等」といふは、「信心よろこぶひとはもろもろの如来とひとし」といふなり。「もろもろの如来とひとし」といふは、信心をえてことによろこぶひとは、釈尊のみことには、「見敬得大慶則我善親友」(大経・下)と説きたまへり。また弥陀の 第十七の願には、「十方世界 無量諸仏 不悉咨嗟 称我名者 不取正覚」[2](大経・上)と誓ひたまへり。願成就の文(同・下意)には、「よろづの仏にほめられ、よろこびたまふ」(意)とみえたり。すこしも疑ふべきにあらず。これは「如来とひとし」といふ文どもをあらはししるすなり。 (消息 P.759)
とされ、本願を信楽するものは、諸仏と等しいとされておられる。
御開山は晩年に、御消息で関東の門弟に盛んにこの如来弥勒等同説を説かれる。摂取不捨の経語の上からは弥勒と同じ徳を受けているのであり、それは如来と等しいとされるのであった。愚直に本願を信じ念仏申している関東の門弟の尊厳性をあらわす意であったのであろう。
なお、等しいと同じは違う概念であることに留意。弥勒とは同じであるが決して如来と同じとはされなかった。等と同を使い分けておられるのである。ともあれ真実信心の念仏者の尊厳をあらわす語が「便同弥勒」と「与諸如来等」という語なのであった。
(94)
信心よろこぶそのひとを
如来とひとしとときたまふ
大信心は仏性なり
仏性すなはち如来なり (浄土 P.573)
(27)
念仏往生の願により
等正覚にいたるひと
すなはち弥勒におなじくて
大般涅槃をさとるべし (正像 P.605)
(28)
真実信心うるゆゑに
すなはち定聚にいりぬれば
補処の弥勒におなじくて
無上覚をさとるなり (正像 P.605)