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行文類講讃

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第三章「行文類」講讃

一 標註と細注

【本文】

諸仏称名の願 浄土真実の行
選択本願の行

諸仏称名の願
【講 讃】

諸仏称名の願

「行文類」のはじめに、まず「諸仏称名の願」と、第十七願を標挙し、その下に「浄土真実の行」「選択本願の行」と二行の細註が施されています。これによって、これから顕される真実行が、第十七願によって私たちに回向された行であることを知らせ、それが法然聖人が顕そうとされた選択本願の行であることを明らかにしていかれるわけです。

第十七願を「諸仏称名の願」といわれたのは、『無量寿経』に、

たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく苔嵯して、わが名を称せずは、正覚を取らじ。(設我得仏、十方世界、無量諸仏、不悉杏嵯、称我名者、不取正覚) (『註釈版聖典』一八頁)

と誓われていたからです。意訳すると、「たとい私が仏陀となり得たとしても、十方の世界にまします無数の仏陀たちが、私がこれから完成する南無阿弥陀仏という名号のもつ無量の徳をほめたたえて、十方の一切の衆生に聞かせることができないようならば、仏になりません」という意味になります。なお、この第十七願が完成したことを告げる成就文には、

十方恒沙の諸仏如来は、みなともに無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃歎したまふ。(『註釈版聖典』四一頁)

と説かれています。いずれにせよ、第十七願は、十方の諸仏に名号の徳を称揚・讃嘆させようと誓われていたことから名づけられたものです。咨嗟とは、感動してほめたたえることであり、称も称揚の意味ですから、ほめたたえることです。したがって「諸仏称名の願」とは、文字の意味からいえば、諸仏をして名号のいわれを讃嘆し称揚させることを誓った願ということになり、真実教を誓った願であるということになります。しかし、「行文類」の標願ですから、真実の行を与えることを誓われた願と見て、標挙された願名であるとしなければなりません。「浄土真実の行」「選択本願の行」という二行の細註が、それを表しています。

 では「諸仏称名」を、どのように理解すれば、行を誓った願名になるのでしょうか。一説では、諸仏の称名とは、諸仏が名号を称揚し称讃することですから、諸仏の称揚(能讃)を主とすれば、教を誓ったことになるが、諸仏に咨嗟・讃嘆されている所讃の名号はもともと往生の因行として如来が選択された行体ですから、所讃の法を主として見ていけば、「この行を領受せよ」と、行を誓った願になります。いま第十七願を諸仏称名の願といって、しかも行を顕す願と見られたのは、諸仏の讃嘆を通して衆生に回向され、衆生往生の因行となっている「名号」を誓った願という意味であると見ていくのが第一説です。これは、「行文類」で明かされる大行とは、衆生のうえに届いて、信心となり称名となってはたらいている「名号」そのものを指しているという学説を主張する人たちが多く採用している説です。

 また一説では、諸仏の讃嘆には広讃(経典を説いて広く仏徳を讃嘆すること)と略讃(名号を称えること)があります。いまも「咨嗟」は広讃を表していますが、「称我名」は略讃を表していて、「咨嗟称我名」とは、諸仏が十方の衆生に「我が名を称えよと咨嗟する」ことと読むことができます。このように諸仏が称名を勧めた願とすれば、第十七願は行を誓った願と見ることができるというのです。『三経往生文類』に、「この如来の往相回向につきて、真実の行業あり。すなはち諸仏称名の悲願にあらはれたり。称名の悲願は『大無量寿経』(上)にのたまはく」(『註釈版聖典』六二五頁)といって第十七願を引用し、次に「称名・信楽の悲願成就の文」といって、第十七願と第十八願の成就文を引用されています。そして最後に、行と信についての釈を結んで、

この真実の称名と真実の信楽をえたる人は、すなはち正定聚の位に住せしめんと誓ひたまへるなり。(『註釈版聖典』六二八頁)

といわれています。この一連の文章によると、「称名の悲願」というのは第十七願を指しており、諸仏が衆生に称名せよと説いているとしか読めないというのです。「信楽の悲願」とは第十八願を指していますが、それを承けて「この真実の称名と真実の信楽をえたる人」といわれたものは、明らかに念仏往生と信じ、信じて念仏するという、称名と信楽の関係を表しているというのです。したがって、「諸仏称名の願」という言葉に、諸仏が称名を勧めるという意味を表しているから、行を誓った願となるというのです。この説は、「行文類」で明かされる大行とは他力の称名を指していると見る人たちが多く採用している説です。