如是
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にょぜ
経の冒頭の「
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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「信巻」信楽釈で、
とある。
『智度論』では経のはじめの「如是」を釈し、
とあり、「仏法の大海は、信を能入と為(な)し、智を能度と為(な)す」といわれていた。一般に仏教では信解行証といい、智度論の「仏法の大海は、信を能入と為し、智を能度と為す」とは、仏の教えを信じ理解して修行し証(さとり)を得ることをいふのであって信は仏教へいる初門であった。ところが御開山は、善悪・浄穢を選ばない阿弥陀仏の本願を信楽することを「信」であるとして『華厳経』を引文され、
- 信は道の元とす、功徳の母なり。一切のもろもろの善法を長養す。疑網を断除して愛流を出で、涅槃無上道を開示せしむ。(信巻 P.238)
とされ、浄土教は信心の宗教であるとされた。それが阿弥陀如来の回向する菩提心である信心を受け容れることによってに「涅槃無上道」の仏に成る成仏道であった。如是我聞の「聞」である信とは
の、疑心あることなしの「聞」であった。