随自意説
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仏が法を説く場合、自分のさとりのままに説くことを随自意説(仏の自意に随って説く)という。また相手の考えに順応して説くことを随他意説(他者の意に随って説く)といい、相手の考えに応じて説くことが仏のさとりに反せず、相手の意に応じて説く説き方を随自他意説(自と他の意に随って説く)という。(涅槃経 迦葉菩薩品之二)
仏教の教説を分類批判する時は、真実の教えを仏自身の本意にかなっているから随自意説といい、仏の本意にかなわない権仮方便の教えを随他意説という。
『選択本願念仏集』では、
- まさに知るべし、随他の前にはしばらく定散の門を開くといへども、随自の後には還りて定散の門を閉づ。一たび開きて以後永く閉ぢざるは、ただこれ念仏の一門なり。弥陀の本願、釈尊の付属、意これにあり。行者知るべし。 (選択集 P.1273)
と、『観経』で韋提希の要請(随他意)によって定善・散善という法門を説かれたが、釈尊の意(随自意)によって定散の門を閉じ、阿弥陀仏の本願念仏の一門を付属されたとする[1]。『観経疏』名号付属釈に、
とあるからである。→念仏付属
なお、古来から『阿弥陀経』は、釈尊自身が仏弟子の問いなくして自ら語り出されるので無問自説の経として随自意の経とされる。舎利弗が釈尊に「於汝意云何(舎利弗、なんぢが意においていかん)」と、再三問われながらも答えることは出来なかったので無問自説経とされるのであった。
なお『阿弥陀経』の問いなくして説かれた意義を善導大師は『法事讃』に、
- 釈迦如来、身子(舎利弗)に告げた まふは、すなはちこれあまねく苦の衆生に告げたまふなり。
と「あまねく苦の衆生に告げたまふ」とあり、『阿弥陀経』は、苦悩の有情である、わたくしの為に説かれた経典であるとする。その意味では『阿弥陀経』に頓出する「舎利弗」の文には、わたくし(林遊)の名を入れて拝読すべきであろうといわれる。