もし一心少けぬれば
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「化巻」では『往生礼讃』の三心釈を引文されるのだが、下記のように「真実の信心なり」である深心釈を乃至して省略されておられる。そして「もし一心少(か)けぬればすなはち生ずることを得ず」とされておられる。
- 『観経』の説のごとし。まづ三心を具してかならず往生を得。なんらをか三つとする。
- 一つには至誠心。いはゆる身業にかの仏を礼拝す、口業にかの仏を讃嘆し称揚す、意業にかの仏を専念し観察す。およそ三業を起すに、かならず真実を須ゐるがゆゑに至誠心と名づく。{乃至}
- 二には深心。すなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知し、いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して、すなはち一念に至るまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく。
- 三つには回向発願心。所作の一切の善根、ことごとくみな回して往生を願ず、ゆゑに回向発願心と名づく。この三心を具してかならず生ずることを得るなり。
- もし一心少けぬればすなはち生ずることを得ず。『観経』につぶさに説くがごとし、知るべしと。 (化巻 P.388)
ここで省略されている深心釈は、『礼懺儀』として、真実行をあらわす「行巻」(行巻 P.188)で引文され、また真実信心をあらわす「信巻」(信巻 P.228)で引文されておられる。このように『観経』の三心を深信中心にみられるのは、法然聖人が『西方指南抄」所収の「十七条御法語」で、
- 又云、導和尚、深心を釈せむがために、余の二心を釈したまふ也。経の文の三心をみるに、一切行なし、深心の釈にいたりて、はじめて念仏行をあかすところ也。(十七条御法語)
などの意を承け、『観経』の三心を深信に納め、この深信を開いてあるのが『大経』の至心・信楽・欲生の三信であると見られたのである。そしてこの三信が、至心は如来の智慧の名号であり、欲生は如来の招喚の回向の大慈悲心であり、信楽一心に納まると見られたのであろう。そしてそれは『浄土論の』「世尊我一心」の「一心の華文」であった。