仏法をあるじとし…
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- 在家仏教ということ
本願寺新報2004(平成16)年1月1日号掲載
勧学 梯 實圓(かけはし じつえん)
- 仏法を中心に生きる
「仏法をあるじとし、世間を客人(まろうど)とせよ」という蓮如上人(一四一五~一四九九)のご法語があります。 仏法とは、阿弥陀如来の本願を信じて念仏し、生死(しょうじ)を超え、愛憎を超えた浄土の実現を目指すことを意味していました。 世間とは、私どもの日常生活のことです。 それは自己中心的な想念に支配され、愛と憎しみに揺れながら生きる世俗(せぞく)の生き方を意味していました。
蓮如上人はこの仏法と世間とに主客を立てられたわけです。 仏法を主人とし、世間を客人とするということは、仏法を中心として世間を生きよといわれるのです。 それは阿弥陀如来の本願こそ真実であると受け容れ、そのみ教えを基準として日常の生活を生きようとする念仏者の姿勢を意味していました。 この世を仏法の真実を確かめる道場(*)とみなして生きることであるともいえましょう。
その反対は世間を主人とし、仏法を客人とみなすような生き方です。 それは、この世をうまく生きるための手段として仏法を利用しようとするものであり、念仏を我欲を達成する手段とみなす生き方を意味していました。 仏法を主(あるじ)とし、世間を客とみなす生き方は、世間を仏法化していきますが、世間を主とし、仏法を客とするような生き方は仏法を世俗化してしまいます。
- 真の仏弟子とほめ讃え
釈尊がそうであったように、愛憎の煩悩を断ち切って、ひたすら万人の救済を目指す清らかな生き方を実現しようとする仏道を聖道門(しょうどうもん)とよんでいます。 そのためには、まず自らを正さねばなりませんから、我欲を捨て、人を憎む心をなくするために、無一物(むいちもつ)の生活に入らねばなりません。 そこで出家をし世俗の絆(きずな)を断ち、ひたすら真実に生きることを教える仏教でした。 世間を超えることによって世間の迷える人々を導こうとするから、出家仏教といいます。
しかし、愚かな凡人は、この世に生きている限り、愛憎の煩悩を断ち切ることもできず、さまざまな罪障(ざいしょう)を作り続けるしかない悲しい存在です。 このような愚かなものを救おうと願い立たれたのが阿弥陀如来の大悲の本願でした。 親鸞聖人はこの本願の教えを浄土真宗と名づけられました。 阿弥陀如来の本願は、出家の行者であれ、家族とともに日常生活を送っている在家(ざいけ)のものであれ、等しく本願を信じ念仏する者に育てあげて、わけへだてなく浄土へ迎え取り、さとりを完成させようと願われています。 だから出家は出家のまま、在家のものは在家のままで、本願をまことと疑いなく受け容れて念仏するならば、本願にかなった真の仏弟子とほめ讃(たた)え、浄土へ往生させてくださるのです。
- ひたすら念仏を申し
決して世俗を捨てることを要求されていないという意味で、浄土真宗は、在家仏教ということができます。 しかし在家仏教とは、ただ愛欲と名利(みょうり)に明け暮れるだけの人生を肯定するものではありません。 決して仏教を世俗化するものであってはならないのです。世俗化された仏教には世俗を救う力はないからです。 在家仏教とは、むしろ世俗の生活に仏道としての意味をもたせていく仏教であるというべきです。
家族を持ち、通常の経済生活を営んでいるかぎり、さまざまな人間関係に煩(わずら)わされないわけにはまいりません。 誰かを愛しながら生きる限り、悲しいことですが愛するものと別離する苦を避けることはできません。 また誰かを憎みながら生きる以上、怨(うら)み憎むものと会う苦しみにさいなまれることでしょう。 そうした愛憎の渦巻く日常生活を、ひたすら念仏を申し、如来さまと相談しながら、そのお導きを光と仰いで生きていくのが在家仏教だったのです。
凡夫の営みはたどたどしい足取りですが、み教えによって与えられた信心の智慧は、苦難の意味を転換する新しい視点を開いてくださるし、念仏を申す人には、苦難に耐える力も恵まれます。 それはまさに闇を背負いながらも光に向って歩む人生であるといえましょう。