難易二道
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なんい-にどう 難易二道
難行道と易行道のこと。浄土教における教判の一。龍樹は「易行品」において不退の位に到る方法について、難行と易行の二種の道があることを示した。「易行品」には
- 仏法に無量の門あり。世間の道に難あり易あり。陸道の歩行はすなはち苦しく、水道の乗船はすなはち楽しきがごとし。菩薩の道もまたかくのごとし。あるいは勤行精進のものあり、あるいは信方便易行をもつて疾く阿惟越致に至るものあり。(行巻引文 P.151)
とある。 難行とは勤行精進のことで、さまざまな修行を長い間重ねて不退に至ることをいう。易行とは信方便易行のことで、阿弥陀仏をはじめとする諸仏の名を称えることによって不退に至ことをいうが、「易行品」には阿弥陀仏について、特にその本願や利益が詳説されていることから、龍樹の本意は阿弥陀仏の易行を説くことにあったといえる。これをうけて曇鸞は『論註』に、難行道の難たる理由について「ただこれ自力にして他力の持つなし」(行巻引文 P.155) と述べ、他力によらないからであるといい、易行道については
- 「ただ信仏の因縁をもつて浄土に生ぜんと願ず。仏願力に乗じてすなはちかの清浄の土に往生を得しむ。仏力住持してすなはち大乗正定の聚に入る」(行巻引文 P.155)
と述べ、信仏の因縁によって浄土に往生することとしている。これを考えあわせると、難行道は自力の法門、易行道は他力の法門(乗仏願力・仏力住持)ということになり、曇鸞が難行道・易行道の内実を自力・他力という言葉であらわそうとしたことが知られる。
また道綽は、難行道・易行道を聖道・浄土の名目(聖浄二門)で示している。
龍樹の難易二道説は、教相それ自体をただちに判釈したものではないが、浄土教理解の基本的な枠組みを示すものとして重要な意義を有している。(浄土真宗辞典)