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行信一念について

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2018年10月9日 (火) 09:19時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版 (行の一念転釈)

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行信一念について

御開山は御消息で、

信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。

と、信をはなれたる行もなく、行の一念をはなれたる信の一念もないとされている。いわゆる行信不離ということである。御開山は「行巻」で行の一念を釈され、「信巻」で信の一念を釈しておられる。この二つはだいぶ離れているが、この二つは行信不離だから対にして読むべきだと聞いたものである。「行巻」で、「行にすなはち一念あり、また信に一念あり」とあるから、行一念と信一念の釈はセットで読むべきなのであろう。そこで、行一念釈と信一念釈を抜き出してみた。真宗の学問とやらには全く縁がないのだが、UPしてある文章へのリンク用に、とりあえず項目を上げて見た。
なお【73】などの番号は聖典の当該箇所へリンクしておいた。現代語→漢文→注釈版のように巡回参照が可能である。

行信一念を明かす

【73】 おほよそ往相回向の行信について、行にすなはち一念あり、また信に一念あり。

阿弥陀如来の回向して下さる、行(称名)と信(信心)を『大無量寿経』には、行の一念、信の一念として顕わされているので、以下にその一念の意味を考察するといわれるのである。
この文は「行巻」にあるのだが「信巻」の信一念釈を含めての標示である。御開山は行で信をあらわされ、信で行を説かれるのである。いわゆる行信不離(信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし)である。

正しく行の一念を釈す

遍数の釈

行の一念といふは、いはく、称名の遍数について選択易行の至極を顕開す。

行の一念は称名〔なんまんだぶ〕であると定義される。遍数(へんじゅ)の遍とは、回数を示す助動詞で一遍二遍などと数を示す。ここでは一念(一遍(いっぺん)の称名)の称名は、本願に選択された易行(修し易い行法)の至極であるとされる。いつでも何処でもだれにでも称えることの出来る、可称可聞の一声の〔なんまんだぶ〕は易行の至極である。法然聖人は「ただ念仏の力のみありて、よく重罪を滅するに堪へたり。ゆゑに極悪最下の人のために極善最上の法を説くところなり」(七p.1258)と、されておられるが、当時の顕密仏教から見放されていた民衆にとっては、選択易行の称名は、あらゆる者が済度され得るという大乗仏教の興起に匹敵する衝撃をもって迎えられたのである。法然聖人によって明かされた選択本願念仏の浄土宗は、まさに宗教改革であった。 西洋かぶれの我々は宗教改革といえば16世紀のルターの宗教改革を想起しがちなのだが、それに先立つ12世紀~に日本では法然聖人によって仏教の宗教改革がなされたのであった。それに参画し法然聖人の真意を洞察し展開されたのが御開山である。
法然聖人は「禅勝房にしめす御詞」に「阿弥陀仏は、一念となふるに一度の往生にあてがひておこし給へる本願也。かるがゆへに十念は十度むまるゝ功徳也」(*)と云われているが、これは大悲の極みでもある。
もちろん遍数であるから、遍(あまね)く「上一形を尽し下十声・一声等に至るまで(上尽一形 下至十声一声等)」(七659) の上一形の一生涯から一声までに称名である。

出 文

大 経(弥勒付属の行一念)

【74】 ゆゑに『大本』にのたまはく、「仏、弥勒に語りたまはく、〈それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなり〉」。

『大無量寿経』流通分(大経 P.81) から行の一念の出拠である文を出される。経典を付属する場合は、その経典の「体」を付属するのであるから、釈尊は弥勒に〔なんまんだぶ〕という名号を付属されたのである。御開山は宗体を「如来の本願を説きて経の宗致とす、すなはち仏の名号をもつて「経の体」とするなり」(*) といわれている。
この無上の功徳である大利とは、「教巻」で「弥陀、誓を超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れんで選んで功徳の宝を施することを致す」(*) とある、衆生に施する「功徳の宝」である名号である。
それが「釈迦、世に出興して、道教を光闡して、群萌を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲すなり」の釈尊の示される「真実の利」である〔なんまんだぶ〕なのである。なんまんだぶを称えることは、阿弥陀仏の浄土の徳の全分を頂いていることであり、一声一声の〔なんまんだぶ〕が如来を宿して絶対であり、完結しているから「無上の功徳を具足」するのであった。

散善義(意)〔下至一念〕

【75】 光明寺の和尚は「下至一念」といへり。

「散善義」の「上一形を尽し、下一日・一時・一念等に至る(上尽一形下至一日一時一念等)」(七p.473) の文から「下至一念」の語をとられて、生涯の念仏の最小の一念までも「無上の功徳を具足」しているとされる。

礼讃〔一声一念〕

また「一声一念」といへり。

『礼讃』の「もし衆生ありて阿弥陀仏を称念すること、もしは七日および一日、下十声乃至一声、一念等に至るまで、かならず往生を得(若有衆生 称念阿弥陀仏 若七日及一日 下至十声乃至一声一念等 必得往生」(七p.712) の文から「一声一念」を出し、一声は一念であることを示す。

散善義(意)〔専心専念〕

また「専心専念」といへり。

「散善義」の「一切の凡夫を勧発して、専心に念仏(勧発一切凡夫専心念仏」(七p.461) の専心念仏の語から専心を出す。この専心は信心の意であり、信一念釈で解釈される。

そして専念の語は「散善義の「一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり(一心専念弥陀名号 行住坐臥不問時節久近 念念不捨者 是名正定之業 順彼仏願故)」の専念であり行を示す語である。
この文の「順彼仏願故(かの仏願に順ずるがゆえ)」によって法然聖人が回心された有名な一文である。それは私が選んだ行ではなく阿弥陀仏の本願によって選択されてた行であり、〔なんまんだぶ〕を称えることは、仏の本願に信順することだったからである。

法然聖人におけるの回心の構造

集諸経礼懺儀〔聞名を出す〕

【76】 智昇師の『集諸経礼懺儀』の下巻にいはく、

「深心はすなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく」と。

この文は、智昇師が『礼讃』の二種深信釈を引用した『集諸経礼懺儀』からの引文である。『礼讃』では「下至十声」とあって「聞」の語はないのであるが、名号は称名となって聞こえるという意をあらわされる為に、あえて『礼懺儀』を引文された。御開山は、称名はもちろん称えるものであり行であるが、その称えて聞こえる声である〔なんまんだぶ〕に関心がおありになったのであろう。
『一念多念文意』では「名号を称すること、十声(とこえ)一声(ひとこえ)、きくひと、疑ふこころ一念もなければ、実報土へ生ると申すこころなり」と、「きくひと」とされておられるのもその意である。
これは法然聖人の仰った「ただくちにて南無阿弥陀仏ととなえば、こゑにつきて決定往生のおもひをなすべし、決定心をすなわち深心となづく。その信心を具しぬれば、決定して往生するなり」(*) を承けておられるのである。
称えた口のはたらきではなく、聞こえる声について決定往生の思いをなすのである。称えるのは私の努力であるが、聞こえて下さるのは本願招喚の勅命であった。これが法然聖人の示して下さった念仏往生の願であった。

解釈

引文を終わり、以下に行一念の解釈をされる。

乃至を釈す

【77】 『経』(大経)に「乃至」といひ、釈(散善義)に「下至」といへり。乃下その言異なりといへども、その意これ一つなり。また乃至とは一多包容の言なり。

この文は『選択本願念仏集』「本願章」の乃下合釈(七p.1213) を承けられたもので『選択本願念仏集』に詳しいので参照されたし。
なお、「一多包容」とは、乃至の語は一念の称名も多念の称名も包容するという言葉であるとされる。
『一念多念文意』では、「乃至は、おほきをもすくなきをも、ひさしきをもちかきをも、さきをものちをも、みなかねをさむることばなり」といわれている。
『一念多念文意』では「一念をひがごととおもふまじき事」として十三文をあげ、「多念をひがごととおもふまじき事」として八文をあげて解釈され、「浄土真宗のならひには、念仏往生と申すなり、まつたく一念往生・多念往生と申すことなし」と結論されておられる。
これは当時、一念義・多念義として水火のごとく争われた、不毛な論義に終止符を打つ意味であったのだろう。
なお、法然聖人は第十八願を「念仏往生の願」と名づけるのは、本願文の乃至十念の十念の語に固執して「上一形を捨て、下一念を捨つる」(*)からであるとされ、この十念という数に固執させないために、善導大師は「念仏往生の願」と云われたのだとされる。(もっとも、この「念仏往生の願」の名は法然聖人の命名である。)

ちなみに、源信僧都の師である慈慧大師は『極楽浄土九品往生義』で第十八願を「聞名信楽十念定生願」とされていた。→『極楽浄土九品往生義』

大利無上を釈す

「大利」といふは小利に対せるの(ことば)なり。「無上」といふは有上に対せるの言なり。まことに知んぬ、大利無上は一乗真実の利益なり。小利有上はすなはちこれ八万四千の仮門なり。

この「大利と「無上」の語も、『選択本願念仏集』「利益章」の大利無上(七p.1223) に詳釈がなされているのを承けたものである。
なお「小利有上はすなはちこれ八万四千の仮門なり」とされておられるのは、八万四千の聖道の法門は仮門(方便教)であるという意である。その八万四千の仮門で行ずる行は小利有上であるとする。
このように八万四千は仮門といえるのは、善導大師が「玄義分」で「心によりて勝行を起せり。門八万四千に余れり(依心起於勝行 門余八万四千)」(玄義分p.300)といわれていたからである。
御開山は、この「門余」の語に着目され「「門余」といふは、「門」はすなはち八万四千の仮門なり、「余」はすなはち本願一乗海なり」(「化巻」(p.394) の門余釈を参照) と、八万四千の聖道門の法門の「余」に特別に顕わしてあるのが、本願一乗海の浄土真宗であるとみられたのである。
このように見られた嚆矢は幸西大徳であり、梯實圓和上の『玄義分抄講述』に詳しいので参照されたし。

門余釈についての和上の論考

行相釈

釈(散善義)に「専心」といへるはすなはち一心なり、二心なきことを(あらわ)すなり。「専念」といへるはすなはち一行なり、二行なきことを形すなり。

専心は二心なき一心(信)であり、専念は二行を並べない一行(行)であると決示される。一心をもって念仏一行を専修する行の相をあらわすので行相釈と呼ばれる。
この場合の一とは絶対の一の意であり、数の上の一ではない。

行の一念転釈

いま弥勒付嘱の「一念」はすなはちこれ一声なり。一声すなはちこれ一念なり。一念すなはちこれ一行なり。一行すなはちこれ正行なり。正行すなはちこれ正業なり。正業すなはちこれ正念なり。正念すなはちこれ念仏なり。すなはちこれ南無阿弥陀仏なり。

弥勒付属の一念は、一声であり、一念であり、それは一行であるとされる。そして一行を転釈され、「すなはちこれ南無阿弥陀仏なり」と云われるのであった。
何故このような転釈による概念操作が必要なのか現在の我々には不可解なのだが、当時の仏教徒にとっては『大無量寿経』の弥勒付属の「それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん」(大経 P.81) の乃至一念の一念は「心念(cita)」であると思われていたからである。『観経』には「智者また教へて、合掌・叉手して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、五十億劫の生死の罪を除く(智者復 教合掌叉手 称南無阿弥陀仏 称仏名故 除五十億劫 生死之罪)」(p.113)と、声に称する南無阿弥陀仏の語はある。しかし、所依の『大無量寿経』に、称名の南無阿弥陀仏の語がない。また御開山は『観経』には隠顕を見られるので、第十八願の「乃至十念」が〔なんまんだぶ〕と称えることの根拠を『観経』には求められなかったのであった。この乃至十念の称名を所依の『無量寿経』に依って明かされたのは法然聖人であった。『三部経大意』で、「その名を往生の因としたまへることを、一切衆生にあまねくきかしめむがために諸仏称揚の願をたてたまへり、第十七の願これなり」(p.784)と、第十八願の「乃至十念」の根拠を第十七願の「諸仏称名の願」によって明示されたのである。
御開山は、これを承けられて第十七願の諸仏の「称我名者(わが名を称す)」(大経 P.18) に称名の根拠を置いておられるのである。御開山の南無阿弥陀仏の六字釈で「しかれば南無の言は帰命なり……帰命は本願招喚の勅命なり」(行巻 P.170)と〔なんまんだぶ〕は聞くことでであるとされた所以である。
参考までに、異訳の『大阿弥陀経』や『平等覚経』には、釈尊の命令で、阿難が西方に向かい仏名(阿弥陀仏の別名)を称えて、この娑婆世界に阿弥陀仏の浄土が顕現したと説かれている。

『平等覚経』阿難 仏名を称す

『大阿弥陀経』阿難が南無阿弥陀仏を称える

決 嘆(大悲の願船)

【78】 しかれば、大悲の願船に乗じて光明の広海に浮びぬれば、至徳の風静かに衆禍の波転ず。すなはち無明の闇を破し、すみやかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す、普賢の徳に遵ふなり、知るべしと。

行一念釈を決釈し、本願の船に乗船する譬喩をあげて、本願の念仏一行を讃歎しておられる。
『浄土文類聚鈔』(p.484) では、

「大悲の願船には清浄の信心を順風とし、無明の闇夜には功徳の宝珠を大炬とす。」

とされて、無明の闇を破るのは功徳の宝珠である〔なんまんだぶ〕であるといわれている。
それは、

「名(みな)を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ」(p.146)

と、称名には、衆生の無明の闇を破り、衆生の往生浄土の願いを満たす功徳力があるからである。これを破闇満願(はあん-まんがん)と言い慣わしている。なお、この場合の無明を破すとは本願を疑惑する心が破されたのであって、いわゆる愚痴の根本無明が破られるのではない。これについては梯實圓和上の「称名破満の釈義」に詳しいのでリンクしておく。 →称名破満の釈義

「普賢の徳に遵ふ」とは慈悲をもって普く一切衆生を済度することを仏教では普賢の徳というのである。大般涅槃を開き、再び浄土より穢土に還って、普賢菩薩のような大慈悲をもって、有縁の人々を済度するのである。『大無量寿経』の序分には聴衆である大乗の菩薩衆を「みな普賢大士の徳に遵へり(皆遵普賢大士之徳)」(*)とある。『大無量寿経』の聴衆の菩薩は還相の菩薩なのであった。
最近は〔なんまんだぶ〕を称える人が少なくなってきた。南無阿弥陀仏は、凡夫が浄土へ往生するために必須の「行法」であることを坊さんが説かなくなってきたからであろうと思ふ。

無明長夜の灯炬なり
 智眼くらしとかなしむな
 生死大海の船筏なり
 罪障おもしとなげかざれ

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ



正しく信の一念を釈す

【60】 それ真実の信楽を案ずるに、信楽に一念あり。

「行巻」の行一念釈の冒頭で「行にすなはち一念あり、信に一念あり」と仰ったのをうけて、これから信の一念を釈していかれる。

時剋の釈

一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。

次下に引文する本願成就文の一念は、信心(信楽)が開発するのに要した時間(時剋)の極限を顕わし、それは信心の発った初発(一番最初)であるといわれるのである。宗学では延促対とか奢促対とかうるさいところなので長くなるので梯和上の考察をリンク。→『一念多念文意講讃』
要するに、無始無終の永遠なる阿弥陀如来の衆生済度の教法と、有限なる時間軸の中で生きている衆生との接点を一念という語でいうのである。〔なんまんだぶ〕の法は時間を超えているのだが、その法が時間的存在である衆生に受け入れられる時には時間が立つ。これを一念というのである。
この場合は一念という信心開発の意味は経文に顕かにあらわれているから「一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し」と「顕」の字を使っておられる。
そして、経文の当分には見えないが、意味として一念という言葉には「広大難思の慶心を彰す」の義があるとして「彰」の字を使っておられるのであった。御開山は、顕と彰の語を使い分けておられるのである。

出 文

大 経(本願成就文の信一念)

【61】 ここをもつて『大経』(下)にのたまはく、「あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん」。

第十八願が成就したことを釈尊が説かれる本願成就文である。この文は通常、

「あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜し、すなわち一念に至るまで、至心に回向して、かの国に生まれんと願ずれば、すなはち往生することを得て、不退転に住せん」

と、衆生の側(約生)から読むのだが、御開山は、阿弥陀如来が至心に回向して下さるご信心であるとして、仏の側(約仏)から読まれたのである。
我々の目から見れば読み替えのように見えるのだが、御開山は信心の智慧によって、本願力回向の文として読めるのであった。また「信心歓喜せんこと、乃至一念せん」と区切って読まれ、乃至一念の一念は信心であるとされたのであった。

如来会〔浄信を出す〕

【62】 また(如来会・下)、「他方仏国の所有の衆生、無量寿如来の名号を聞きてよく一念の浄信を発して歓喜せん」とのたまへり。

上記の『大無量寿経』の本願成就文の一念が信心であることを、異訳の『如来会』の成就文の「一念の浄信」の文によって証明されておられるのである。法然聖人は、本願成就文の一念は行の一念として見ておられたのだが、御開山は、この『如来会』の文によって一念は信心であると見られたのである。

→『如来会』の一念の浄信

大 経〔聞名不退転を出す〕

 また、「その仏の本願の力、名を聞きて往生せんと欲はん」とのたまへり。

本願の悟りの世界から衆生に届いている呼び声を『大無量寿経』の「往覲偈」の文によって顕わしておられる。ここでは略しておられるが、行巻で引文され文は、

其仏本願力 聞名欲往生
その仏の本願力、名を聞きて往生せんと欲へば、
皆悉到彼国 自致不退転
みなことごとくかの国に到りて、おのづから不退転に致る。

と、聞名不退転を示す句である。ここでは聞を示すために出された。
この「往覲偈」の一句については、法然聖人の『三部経大意』に面白いエピソードがあるので参考までにリンクしておく。なおこの一句は「破地獄の文」ともいわれ、かっては納棺の時に、この漢文の句を記した紙片を棺桶に入れたものである。

→玄通律師の逸話

如来会〔聞名を出す〕

 また(如来会・下)、「仏の聖徳の名を聞く」とのたまへり。

上と同じく、浄土真宗では、阿弥陀仏の(みな)を聞くということの重要なことを顕わしておられるのである。それはまた可称(かしょう) 可聞(かもん)(称えられ聞こえる)の、称えて聞く称名のお勧めであり、本願招喚の仏名を聞く事が信であるということである。これを先人は「聞即信(もんそくしん)」と言い慣わしてきた。

涅槃経(迦葉品)〔聞不具足を出す〕

【63】 『涅槃経』(迦葉品)にのたまはく、「いかなるをか名づけて聞不具足とする。如来の所説は十二部経なり。ただ六部を信じていまだ六部を信ぜず、このゆゑに名づけて聞不具足とす。またこの六部の経を受持すといへども、読誦にあたはずして他のために解説すれば利益するところなけん。このゆゑに名づけて聞不具足とす。またこの六部の経を受けをはりて、論議のためのゆゑに、勝他のためのゆゑに、利養のためのゆゑに、諸有のためのゆゑに、持読誦説せん。このゆゑに名づけて聞不具足とす」とのたまへり。{以上}

『涅槃経』では、小乗経典だけを聞いている者は、仏の説かれた十二部経全体を聞いていないのだという。十二部経のうちの六部の経を受持しているだけならば、仏の教説の半分だけ聞いただけであるから「聞不具足」であるというのである。半分しか聞いていないから本当に仏法を聞いたことにならない。仏の説かれた大乗経典を聞かない者は十二部経を聞いていないので「聞不具足」である、と『涅槃経』ではいうのである。
御開山はこの意を転じて、聖道門の経だけを受持している者は、浄土門の信心の教えを知らないから「聞不具足」であるといわれるのである。聖道門の(ほか)に浄土門という仏教があることを認めない者や、聖道門の自業自得の論理で浄土仏教を理解しようとする者は「聞不具足」であるとされたのであろう。論議や勝他という言葉に当時の聖道門から、法然聖人の開かれた浄土宗への非難を感じられたのかもしれない。
浄土真宗は「本願を信じ念仏を申さば仏になる」という、本願力に乗託して浄土へ往生し仏に成るご法義である。他力の信心の宗教である。これが解からず自力に偏執している輩に、本願他力のご信心の教えを知ろうとしない者は、「聞不具足」であるとされたのである。

散善義〔一心専念・専心専念を出す〕

【64】 光明寺の和尚(善導)は「一心専念」(散善義)といひ、また「専心専念」といへり。

「行巻」の同じく「一心専念」と「専心専念」の語を出される。「一心専念」は「一心専念弥陀名号……順彼仏願故」の文からであり「行巻」では、

釈に「専心」といへるはすなはち一心なり、二心なきことを形すなり。「専念」といへるはすなはち一行なり、二行なきことを形すなり。

と、専心は二心なき一心であり、専念は二行なき念仏一行であるとされていた。二心なき一心とは唯信と同義語であり、『唯信鈔文意』では唯信を、「本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを「唯信」といふ」とある。なお行を示す専念の語を出しておられることに留意。御開山にとっては信と行は不離なのであった。

解釈

引文を終わり、信一念の解釈をされる。

聞信一念を釈す

【65】 しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。
「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。

ここは、先に引いた本願成就文の「その名号を聞きて信心歓喜せん」の名号を聞く「聞」は、信心であるような聞であることを顕わしておられる。『一念多念文意』では、

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。

と「本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり」といわれているから、第十八願を疑いなく聞信する如実の聞である。
仏願の生起とは、なぜ法蔵菩薩が本願を起こさなければならなかったかという理由(生起)と、その本願がどのように誓われており、どのように成就されたかをいう。
『浄土論註』には、一々の浄土の荘厳について「仏 (もと)この荘厳清浄功徳を起したまへる所以は」と問い、その理由が述べられているのもその意であろう。──ただし御開山は浄土の依報(依りどころとなる国土や環境世界)である荘厳に関してはほとんど関心をはらっておられない。
本末とは、阿弥陀仏の本願が成就(本)し、その願のとおりに衆生を済度しつつあるはたらき(末)を、疑いなく聞きうけていることを末というのである。

信相釈

「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。
「乃至」といふは、多少を摂するの言なり。
「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり。

『一念多念文意』には、

「歓喜」といふは、「歓」は身をよろこばしむるなり、「喜」はこころによろこばしむるなり。うべきことをえてんずとかねてさきよりよろこぶこころなり。「乃至」は、おほきをもすくなきをも、ひさしきをもちかきをも、さきをものちをも、みなかねをさむることばなり。「一念」といふは信心をうるときのきはまりをあらはすことばなり。

と、ある。 なお。御開山は歓喜と慶喜を使い分けられ、歓喜は「うべきことをえてんずとかねてさきよりよろこぶこころなり」と往生浄土の喜ぶ未来形の喜びであり「慶喜」は「うべきことをえてのちによろこぶこころなり」と、〔なんまんだぶ〕を称える身になったことを喜ぶ意であるとされた。

以下考察中!

一心の利益を明かす(現生十種の益)

金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。なにものか十とする。一つには冥衆護持の益、二つには至徳具足の益、三つには転悪成善の益、四つには諸仏護念の益、五つには諸仏称讃の益、六つには心光常護の益、七つには心多歓喜の益、八つには知恩報徳の益、九つには常行大悲の益、十には正定聚に入る益なり。

ここでは十種の益をあげておられるが、究極的には正定聚に入る益に納まる。各利益の詳細については書籍などを参照されたし。→現生十益
ここで、「横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲」とされておられるのだが、時系列でいえば、現生に十種の益を獲て、横に五趣八難の道を超えるのであろう。
このことを昔の和上は、米を獲ろうと思たら藁まで獲れたと表現していた。「五趣八難の道を超え」ようとしたら「現生に十種の益」まで獲たというのである。「藁を獲るために稲を作る者はいない。藁は米を収穫する時の副産物である。浄土真宗の目的は往生成仏であって、現生十種の益は本願力回向の真実信心の副産物だというのである。藁は藁で利用価値があるのだが、まあいいか。

仏号むねと修すれども
 現世をいのる行者をば
 これも雑修となづけてぞ
 千中無一ときらはるる

という御開山の和讃の趣旨から見れば首肯できる意見ではある。

師釈を釈す(善導)〔専念は一行、専心は一心であることを釈す〕

【66】 宗師の「専念」といへるは、すなはちこれ一行なり。「専心」といへるは、すなはちこれ一心なり。

この「専念」と「専心」は行一念釈でも引かれ、【64】の善導大師の師釈でも引かれていたが、ここでは次下での、一念は専心であり深心であり深信であり……という転釈のために挙げられている。一行一心と行と信を挙げておられることに留意。

信の一念転釈

しかれば、願成就(第十八願成就文)の「一念」はすなはちこれ専心なり。専心はすなはちこれ深心なり。深心はすなはちこれ深信なり。深信はすなはちこれ堅固深信なり。堅固深信はすなはちこれ決定心なり。決定心はすなはちこれ無上上心なり。無上上心はすなはちこれ真心なり。真心はすなはちこれ相続心なり。相続心はすなはちこれ淳心なり。淳心はすなはちこれ憶念なり。憶念はすなはちこれ真実の一心なり。真実の一心はすなはちこれ大慶喜心なり。大慶喜心はすなはちこれ真実信心なり。真実信心はすなはちこれ金剛心なり。金剛心はすなはちこれ願作仏心なり。願作仏心はすなはちこれ度衆生心なり。度衆生心はすなはちこれ衆生を摂取して安楽浄土に生ぜしむる心なり。この心すなはちこれ大菩提心なり。この心すなはちこれ大慈悲心なり。

この信心の転釈は、梯實圓和上の「一念転釈」が詳しいので参照のためリンクしておく。

一念転釈

決示(信心は、如来の無量光明慧によって生ずる心である)

この心すなはちこれ無量光明慧によりて生ずるがゆゑに。

この心とは、上の一念の転釈をうけて、願作仏心であり度衆生心である大菩提心の大慈悲心は、凡夫の側からは絶対に発るものではなく、阿弥陀如来の無量光明慧によって生じた心であることをいわれるのである。この無量光明慧は『十住毘婆沙論』「易行品」(十住毘婆沙論 P.15) から採られたものである。

正しく菩提心の徳を嘆ず

願海平等なるがゆゑに発心等し、発心等しきがゆゑに道等し、道等しきがゆゑに大慈悲等し、大慈悲はこれ仏道の正因なるがゆゑに。

この文は、「真仏土文類」で引かれた『浄土論註』の、性功徳釈からの法蔵菩薩の菩提心について語った文からの引文である。性功徳釈では、

諸法平等なるをもつてのゆゑに発心等し、発心等しきがゆゑに道等し、道等しきがゆゑに大慈悲等し。大慈悲はこれ仏道の正因なるがゆゑに。

とあるのだが、諸法を願海に変えて引文されておられるのであった。詳細は前掲の梯實圓和上の「一念転釈」を参照。
初めてこの話を聞いたときは、梵声猶雷震(梵声はなほ雷の震ふがごとく)びっくりして震えたものであった。林遊を浄土へ往生させる正因とは、法蔵菩薩が浄土を建立した菩提心と等しいご信心であるというのである。
それはまた、御開山が訓点を付け替えられる前の、善導大師の「至誠心釈」で、阿弥陀仏の浄土に往生するためには、阿弥陀仏が因中の法蔵菩薩の時に行じた菩薩行と等しくなければならない、と示しておられたことに通じるのである。
本願力回向のご法義、まことに見事なものである。

菩提心を要となすことを明かす(論註)

【67】 『論の註』にいはく、「かの安楽浄土に生れんと願ずるものは、かならず無上菩提心を発するなり」とのたまへり。

以上のことから、浄土真宗の信心とは浄土の大菩提心であるから、よく往生の正因となるのであった。ある意味では、菩提心は私が発すものではなく、阿弥陀如来の菩提心に包まれていることを信知することでもあった。昔の門徒が、阿弥陀仏を親さま親さまと呼称してきたのも、本願力の菩提心に包まれていることの表現だったのである。そして、これを浄土真宗では「信心正因」と呼称するのであった。

生仏不二を顕わす

行信は、第十八願の「若不生者 不取正覚」の生仏不二から出たことを示す。

論 註(是心作仏を釈する)

【68】 またいはく(同・上 八二)、「〈是心作仏〉(観経)とは、いふこころは、心よく作仏するなり。〈是心是仏〉とは、心のほかに仏ましまさずとなり。たとへば火、木より出でて、火、木を離るることを得ざるなり。木を離れざるをもつてのゆゑに、すなはちよく木を焼く。木、火のために焼かれて、木すなはち火となるがごときなり」とのたまへり。

『浄土論註』で『観経』の

諸仏如来はこれ法界身なり。一切衆生の心想のうちに入りたまふ。このゆゑになんぢら心に仏を想ふ時、この心すなはちこれ〔仏の〕三十二相・八十随形好なれば、この心作仏す、この心これ仏なり。

を釈す「この心作仏す、この心これ仏なり(是心作仏、是心是仏)」からの引文。
本願力回向のご信心は阿弥陀如来の菩提心でもあるから仏心であり、この心が仏に()るということを、火と木の喩えで示しているのである。これは衆生と阿弥陀仏が不二(生仏不二)である意を顕わしている。第十八願に「もし生ぜずは、正覚を取らじ(若不生者 不取正覚)」とある意である。

定善義(是心外 無異仏を釈す)

【69】 光明(善導)のいはく(定善義・意 四三二)、「この心作仏す、この心これ仏なり、この心のほかに異仏ましまさず」とのたまへり。

上と同じ『観経』の「是心作仏、是心是仏」の意を『観経疏』「定善義」から引く。生仏不二であるから、心に憶念する〔なんまんだぶ〕の阿弥陀如来以外には仏はましまさずというのであろう。

行信の決示

【70】 ゆゑに知んぬ、一心これを如実修行相応と名づく。すなはちこれ正教なり、これ正義なり、これ正行なり、これ正解なり、これ正業なり、これ正智なり。


御開山は、「信巻」別序で「ことに一心の華文を開く(特開一心華文)」とされていた。この一心とは、『浄土論』の「世尊我一心 帰命尽十方無礙光如来 願生安楽国(世尊、われ一心に尽十方無礙光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず)」の一心である。
この一心は、帰命の「信」と「尽十方無礙光如来」の「行」が如実に相応しているのだと「如実修行相応」の文を出されている。この一心とは、信(帰命)と行(称無礙光如来名)を包摂している一心であった。そして、〔なんまんだぶ〕(帰命尽十方無礙光如来)を称える行とは、正しい教であり、正しい義であり、正しい行であるというのである。その行を受け容れた「信」は正しい領解であり、正しい行業であり、正しい智慧であると結んで行信の一念釈を結ぶのであった。ここでは挙げていないが、次下の段で第十八願の、至心・信楽・欲生の三心を一心として結んでいかれるのであった。『教行証文類』は難解な書だが、それは重層的な構造のせいである。「信巻」で、三心一心釈で信一念釈をしながら、その中には「行巻」の行一念釈を含むような構造であるから難解なのであろう。ともあれ、行のない信もなければ、信のない行も無いのであった。

以下、淳心、一心、相続心の如実修行相応を考察中!

不如実修行といへること
 鸞師釈してのたまはく
 一者信心あつからず
 若存若亡するゆゑに
二者信心一ならず
 決定なきゆゑなれば
 三者信心相続せず
 余念間故とのべたまふ
三信展転相成す
 行者こころをとどむべし
 信心あつからざるゆゑに
 決定の信なかりけり
決定の信なきゆゑに
 念相続せざるなり
 念相続せざるゆゑ
 決定の信をえざるなり
決定の信をえざるゆゑ
 信心不淳とのべたまふ
 如実修行相応は
 信心ひとつにさだめたり

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ