教証
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きょう-しょう (もん-しょう)
教証(理証)
聖教即ち経論に示された証拠で文証(もんしょう)ともいう。これに対して理論上の証明を理証(りしょう)という。(仏教学辞典)
教説が真実であることを経文や論釈の文の上から証明することを文証といい、その教説が真理であることを道理性をもって証明することを理証といふ。御開山は『教行証文類』という文類という形式で著述されておられる。梯實圓和上はこの意を「ただ『楽邦文類』などの様式をまねたということだけではなくて、むしろ文類形式をとることによって、専修念仏の教説が仏陀や祖師の真意にかなう「浄土真実の宗旨」であることを、仏祖をして語らしめる為であったと考えられる。[1]」と言われていた。その意味に於いて御開山の経論釈の引文は単なる文章の引用ではなく、
- 敬信 真宗教行証 特知如来恩徳深。斯以慶所聞 嘆所獲矣。
- 真宗の教行証を敬信して、ことに如来の恩徳の深きことを知んぬ。ここをもつて聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなりと。 (総序 P.132)
という「慶所聞 嘆所獲(聞くところを慶び、獲るところを嘆ずる)」の讃歎の意であった。
教証(文証)の一例を挙げれば、現生利益の傍依の釈文証として、王日休の『龍舒浄土文』以下『大経』『如来会』の弥勒の文、普授を示す律宗の用欽師の文を引文されて、
- 真知 弥勒大士窮等覚金剛心故 竜華三会之暁 当極無上覚位。
- 念仏衆生 窮横超金剛心故 臨終一念之夕 超証大般涅槃。
- 故曰便同也。
- 加之獲金剛心者 則与韋提等 即可獲得 喜・悟・信之忍。
- 是則 往相廻向之真心徹到故 籍不可思議之本誓故也。
と、真仏弟子(念仏の衆生)は、等覚の弥勒と等しい位に定められていると結釈されておられるのであった。
- ↑ 『法然教学の研究』p.501