自利・利他
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じり・りた
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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じり 自利(利他)
この両者を合わせて二利といい、両者を完全に両立させた勝れた状態が大乗仏教の目的とする仏の世界で、これを自利利他円満という(これに対して小乗は自利にかたよっているとされる)。
曇鸞の浄土論註巻下では利他と他利とを区別して、利他とは仏からいう場合であり、他利とは衆生からいう場合であるとし〈→他利利他の深義〉、親鸞はこの意を承けて、自利を自力、利他を他力の意に用いることがある。即ち愚禿鈔巻下では、至誠心(真実心)に二種、即ち衆生がまことをこめて起こす真実心と、仏が衆生を救いたいと願って起こす真実心とがあるとし、前者を自力の真実心の意で自利真実、後者を他力の真実心の意で利他真実とし、合わせて二利真実という。(愚禿下 P.519) (仏教学辞典)
御開山は『観経疏』の至上心釈に、
とあり、自利真実についての文はあるのだが利他真実を示す文がないので(*)、至誠心釈に利他真実があらわされていると見られた。そして阿弥陀仏の利他真実をあらわす文として至誠心釈の訓点を変えて読まれ、自利真実をあらわす文は自力をあらわす「化巻」で引文された。→至誠心釈の利他真実の読み方
このように善導大師の至誠心釈に、自力と他力の二種をみられたのは法然聖人が『三部経釈』で、
- 真実に自他の諸悪及穢国等を制捨して、一切菩薩とおなじく、諸悪をすて諸善を修し、真実の中になすべし」{散善義}といへり。このほかおほくの釈あり、すこぶるわれらが分にこえたり。
- ただし、この至誠心はひろく定善・散善・弘願の三門にわたりて釈せり。これにつきて摠別の義あるべし。摠といふは自力をもて定散等を修して往生をねがふ至誠心なり。別といふは他力に乗じて往生をねがふ至誠心なり。(三部経大意p.787)
と、至誠心に総(摠)と別を分けて定善・散善の自力(自利)と弘願の他力(利他)として解釈されていた意を承けておられるのであろう。