承元の法難
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じょうげんの-ほうなん
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けんえいのほうなん/建永の法難
元久二年(一二〇五)の興福寺による念仏批判から建永二年(一二〇七)の法然配流までの法難をいう。三大法難の一つ。「承元の法難」とも呼ばれる。『四十八巻伝』三一によると、元久二年九月に興福寺が法然らの処罰を朝廷に訴えたことが発端となった。同一〇月起草の『興福寺奏状』という興福寺が朝廷に訴えた奏状の案が現存しており、専修念仏が一門に偏執し他宗を軽んずる点を非難し、その過失を停止し法然と弟子らに罪科を行うように求めている。同一二月二九日朝廷は宣旨を出したが、これになお不満な興福寺はさらに朝廷に訴えた。『三長記』元久三年二月から八月にかけて、蔵人頭として実際に興福寺との折衝に当たった記主三条長兼によって興福寺側と朝廷側の交渉の経過が記されている。最終の結論は記事を欠く部分があって明らかでないが、後鳥羽上皇の考えもあり、法然には問題はなく弟子安楽房遵西と法本房行空に偏執があるため両人を罪科に処することで合意した。この後も上皇は偏執について有力公卿や元老に諮問を行っているが、結局処罰の宣旨が出された形跡を確認することはできない。このような情勢のなか建永元年(一二〇六)に事件が起こった。『四十八巻伝』三三によると「建永元年十二月九日、後鳥羽院熊野山の臨幸ありき、その頃、上人の門徒住蓮・安楽等の輩、東山鹿谷にして別時念仏を始め、六時礼讃を勤む。定まれる節・拍子なく各々哀歓悲喜の音曲を為すさま、珍しく貴かりければ、聴衆多く集まりて、発心する人も数多聞こえし中に、御所の御留守の女房出家の事ありける程に、還幸の後、悪し様に讒し申す人やありけん」(聖典六・五三八)とあり、後鳥羽上皇が熊野参詣の留守中に、住蓮・遵西の別時念仏・六時礼讃を聴聞した女房が感激のあまり勝手に出家したという。この院の小御所の女房を伊賀局亀菊、また坊門局とする説などがある。上皇の逆鱗に触れた両名は処刑され、その後、専修念仏停止は広がり、同二年二月九日には一向専修の輩が捕われ、同二八日には法然は土佐国、親鸞は越後国に配流とする宣旨が下った。法然は三月一六日九条兼実の厚意で法性寺を出発し、経の島・室の泊を経て、その後変更され配所となった讃岐国に入った。同一二月八日には勅免の宣旨が下り、四国を離れて摂津国勝尾寺に滞在することとなった。
【参考】平雅行「建永の法難について」(『日本中世の社会と仏教』塙書房、一九九二)、上横手雅敬「〈建永の法難〉について」(『鎌倉時代の権力と制度』思文閣出版、二〇〇八)
【執筆者:中野正明】