機法一体の正覚
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きほういったいのしょうがく
機は衆生の往生、法は阿弥陀仏の正覚を指し、阿弥陀仏の正覚成就のままが衆生の往生成就であるように、一体不二に成就された仏徳のことをいう。(安心決定 P.1397)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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きほう-いったい
「機」とは衆生の信心、「法」とは阿弥陀仏が衆生を救う力・はたらきのことで、両者は一つであって異なるものではないということ。蓮如は『御文章』3帖目第7通において
- 「南無」の二字は、衆生の阿弥陀仏を信ずる機なり。つぎに「阿弥陀仏」といふ四つの字のいはれは、弥陀如来の衆生をたすけたまへる法なり。このゆゑに、機法一体の南無阿弥陀仏といへるはこのこころなり。(御文章 P.1147)
と、衆生の「信心」(機)と阿弥陀仏が衆生を救う力・はたらき(法)とは別のものではないことを述べ、あるいは3帖目第2通では、
- さてその他力の信心といふはいかやうなることぞといへば、ただ南無阿弥陀仏なり。( P.1137)
1帖目第15通では
- 南無阿弥陀仏の体は、われらをたすけたまへるすがたぞとこころうべきなり。(御文章 P.1106)
とも述べて、南無阿弥陀仏の六字全体は、そのまま信心(機)のすがたをあらわしたものであり、またそのまま阿弥陀仏の救いの力・はたらき(法)であると見ている。 なお『安心決定鈔』に説かれる機法一体は、西山義の生仏不二の原理に立つものであり、多義がある。浄土真宗における機法一体の意義を明らかにするために、安心論題に「機法一体」が設けられている。