往生の善知識
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おうじょうのぜんぢしき
往生浄土を勧める善知識。 以下の善人・智者もこれに同じ。 →善知識(ぜんぢしき) (散善義 P.489、散善義 P.496、往生礼讃 P.705)
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
- 善知識帰命の過ち
蓮如さんは、日本仏教において希代の宗教オルガナイザーであった。四十三歳(1547)で八代目として継職した本願寺は、ほとんどさびれ果てて参詣の人もまばらであった。五十一歳(1465)の時には延暦寺の衆徒によって本願寺は破却される。この当時は御開山が尊崇された「無碍光如来」の義を説くので造悪無碍を説く無碍光宗であると延暦寺側に誤解されたのであろう。この延暦寺の迫害を逃れ、五十六歳で越前吉崎に坊舎を建立(1471)されてからのご教化によって本願寺は日本有数の教団となったのである。そのような意では蓮如さんはカリスマ性をもっておられたのであろうが、それを最も危惧し批判しておられたのが蓮如さんであった。以下の帖外のお文では、我を善知識として拝むくらいなら、墓場の卒塔婆を拝む方が利益があると、門徒をさとしておられるのであった。
去年霜月のころよりこのかた、当国・加州・能登・越中のあひだより、男女老少幾千万となく当山へ群集せしむる条、しかるべからざるよしの成敗をなすといへども、さらにもて多屋坊主以下その承引なし。さだめて他宗・他家のかたにも、偏執の義もかつはこれあるべしとおもふなり。そのいはれいかんといふに、在家止住のつみふかき身が、弥陀の本願を信じ後生一大事とおもひ、信心決定してまことに極楽往生治定とこゝろえたらん身は、そのありがたさのあまり報謝のために足手をはこび、また当山に安置するところの本尊ならびに開山の御影へもまいり、またわれらなんどにも対面をとげんは、まことに道理なるべし。しかるになにの分別もなく、たゞひとまねばかりにきたらんともがらは、当山の経廻しかるべからざるよしをまうすなり。そもそも予がまへゝきたりて、見参対面をとげた
りといふとも、さらにわれらがちからにて後生をたすくべきむねなし。信心をとりて弥陀如来をたのみたてまつらんひとならでは、後生はたすかるべからず。わがまへゝきたらんずるよりは、山野の墓原へゆきて五輪率都婆をおがみたらんずるは、まことにもてその利益もあるべし。すでに経文にいはく、一見率都婆永離三悪道[1]といへり。この率都婆をひとたびおがみたらんひとは、ながく三悪道の苦患をば一定のがるべしと、あきらかに経にみえたり。かへすがへす当山へなにのこゝろえもなきひときたりて、予に対面して手をあはせおがめること、もてのほかなげきおもふところなり。さらにもてたふときすがたもなし、たゞ朝夕はいたづらにねふせるばかりにて、不法懈怠にして不浄きはまりなく、しわらくさき身にてありけるをおがみぬること、真実真実かたはらいたき風情なり。あさましあさまし。これらの次第を分別して、向後は信心もなきものは、あひかまへてあひかまへて率都婆をおがむべし。これすなはち仏道をならんたねになるべし。よくよくこゝろうべきものなり。
秋さりて 夏もすぎぬる 冬ざれの
いまは春べと こゝろのどけし
この歌のこゝろは、当山にこの四ケ年すめるあひだのことをよめるうたなり。五文字に秋さりてといふは、文明第三の秋のころより、この当山吉崎に居をむすびて四年の春夏秋冬ををくりしことは、すでに秋をば三、夏をば二、冬をば三、春をば三なり。かやうに四ケ年のあひだ春夏秋冬ををくりしかども、こゝろうつくしく他力真実の信心を決定したるひと
もなかりしに、去年の霜月七日のうちに、かたのごとくひとびとの信心をとりて、仏法にこゝろのしみてみえしほどに、ことしの春はうれしくおもひけるが、さていまは春べといへり。こゝろのどけしといふは、信心決定のひとおほければ、こゝろのどけしといへるこゝろなり。あなかしこ、あなかしこ。
文明六年 甲午 正月廿日
- ↑ 一見率都婆永離三悪道。 率都(塔)婆を一見すれば永く三悪道を離れる。
→善知識