生死の家には…
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しょうじのいえには
生死輪廻の家にとどまるのは本願を疑うからであり、さとりの城(みやこ)に入るのは本願を信ずるがゆえである。 (選択集 P.1248)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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信の反対語は本来は不信であるが、法然聖人は疑いであるとされた。
- 当知 生死之家 以疑為所止 涅槃之城 以信為能入
- まさに知るべし、生死の家には疑をもつて所止となし、涅槃の城には信をもつて能入となす。
この『選択集』の文を親鸞聖人は「正信念仏偈」で、
- 還来生死輪転家 決以疑情為所止 速入寂静無為楽 必以信心為能入
- 生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもつて所止とす。すみやかに寂静無為の楽に入ることは、かならず信心をもつて能入とすといへり。
と、讃詠されておられる。
シナでは城とは平城であり、城壁で囲んだ一定の区画した範囲をいい、住民の居るところをいう(日本の平城京や平安京などの形式。なお平城京などでは城壁は無い)。戦国期以後の日本の城のような城郭形式ではない。ここは王が居住する都(みやこ)でもある。この意から阿弥陀仏のまします浄土を城や都と表現するようになったのであろう。
城(みやこ)→都→洛陽(紀元前1100年頃のシナの西周時代に都とされたところの名)→洛→楽(音通)? 楽にはねがう、たのしいという意味もあり『阿弥陀経』では極楽という。→常楽我浄